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見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたこと。
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Posted by - 2024.04.25,Thu
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Posted by Ru Na - 2014.10.12,Sun
展覧会の締め切りが迫るこの多忙時期。
コンサートに行くなんて、普通考えもしないけれど、
行かないと一生後悔しそうと、どうしてもこの公演は逃したくなかった。

       

“あのゲルギエフ” と “あのネルソン・フレーレ” の共演が、
こんな地方都市で聴くことができる機会は二度と廻って来ないかもしれない。

   

ゲルギエフはカリスマ指揮者と呼ばれるが、どこがどうして良いのか
分析なぞできない。とにかく良いとしか言えない。
数年前、大阪までゲルギエフとマリンスキー管を聴きに行った。
フェスティバルホールの建て直し前のことである。
何かとてつもないものを聞いてしまった、という体験だった。

現在世界最高のピアニストの一人であるフレーレも、
非の打ち所がない、完全に安心しきってその音楽に浸りきれる
バランスの取れた演奏家である。

   

しかもブラームスのピアノ協奏曲第2番という魅力的な演目。
リヒテルをして、エミール・ギレリスの最高の演奏があるから
自分はこの曲の録音をしたくない、と言わしめたギレリスの
レコードを、それとは知らず昔買った。
少ない小遣いから何とか捻出して買った1枚なのに、
10代の頃は、その凄まじい迫力が怖くて、あまり聴かなかった。
清濁双方呑み込んだようなブラームスの音楽を、
心底味わえるようになったのは、年齢が進んでから。
この第2番は、なまじの演奏家では聴きたくないという想いに、
フレーレならば答えてくれるだろう。
という訳で、ブラームスのピアノ協奏曲を生で聴くのは
今回が始めてである。

第1楽章。芳醇な秋の野のような始まり。
甘美な思い出と憧れを運ぶ風が、ピアノのやるせない感情の嵐で
その景色を一変させる。
先行するピアノにオーケストラが肉付けしていくそのタイミングを
見ていると、モーツァルトのピアノ協奏曲のように
弾き振りする事が到底無理、というのがよく分かる。

通常、第2楽章はアダージョなどの穏やかで優しい旋律になっているが、
このピアノ協奏曲は違う。
第1楽章の重苦しい憂鬱さが、まるで爆発するみたい。
この第1楽章と第2楽章のキツさのおかげで、
若い頃は長い間、この曲を敬遠していた。
アグレッシヴなフレーレの音。突っ走りそうなテンポを、
ゲルギエフはむしろ抑えたがっているように思えた。
それが第3楽章、第4楽章と進むにつれ、双方のテンポが
ぴったりと合って、幸福なロンドで幕を閉じた。

  

アンコールは、グルックの「妖精の踊り」。
とても繊細で美しく、もっとこの人のフランス音楽を
聴きたくなった。
フレーレはF.クープランやラモーをどのように弾くのだろうか?

休憩を挟んで、後半はチャイコフスキーの「悲愴」。
3階バルコン席で、ちょうど舞台を斜め上から見下ろす位置で
聴いていたものだから、音が特に立体的に目に見えるようだった。
「悲愴」はやはりゲルギエフやマリンスキーの十八番なのだろう。
スコアも置かずに指揮するゲルギエフの指先から紡ぎだされる
豊かで驚異的な音の波に包まれて、
チャイコフスキーの音楽の海にとっぷり浸かった。

コントラバスの弦から、最後の2音がそっと弾かれ消えてゆくと、
会場はしんと静まりかえり、静寂の刻がしばらく続いた。
誰も身動きしない。
ゲルギエフがおもむろにゆっくり聴衆の方を向いても、
その静寂はしばし続いて、それから、ほんとうに静かな拍手が
少しづつ湧き上がって、それが怒涛のような拍手の嵐になった。

音楽に完全に入り込み、呑まれていた聴衆が我に還るまでの、
この貴重な長い沈黙。
その音の空白の長さに感動したようなゲルギエフの面持ちが、
目に焼きついた。














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Posted by Ru Na - 2014.03.19,Wed
ウクライナ情勢は、ロシアがロシア系住民が多いクリミア半島に介入し、
それに対する欧米各国の非難の渦の中、クリミアではその帰属を巡っての
住民投票が行われた事で、ますます混乱を極めている。
私にはロシア人とウクライナ人の違いが分からない。
少し調べてみても、旧ユーゴスラビアのように、ルーツがほぼ同じ人々が
歴史や文化の違いで、○○民族といったように分化していったような印象を受ける。

それより、6世紀のウクライナ地域に「ハザール王国」という、
今だ謎多い改宗ユダヤ教国が勃興していたという、興味深い事を知った。

キエフ・ロシア王国、ビザンチン帝国、それに続く蒙古来襲の「タタールのくびき」。
「ウクライナ・コサック集団」による自治国。リトアニアやポーランドによる支配。
ロシア帝国によるロシア化、と、あまりにも複雑な歴史。
歴代のロシア皇帝によるユダヤ人追放令が続いたが、エカテリーナ2世の時代、
ポーランド分割によってユダヤ人口が一気に増えたという。
(その頃のこの地域はポーランド領だったらしい。)
居住区域の制限、改宗への強要など、ロシア帝国内の反ユダヤは続き、
「屋根の上のバイオリン弾き」に描かれているような、
本格的なユダヤ人迫害「ポグロム」は、ウクライナのオデッサから始まったという。
そのため米国に移住するユダヤ人も増え、ユダヤ系アメリカ人になった。

ロシア革命では、ユダヤ人の活躍が大きな役割を担った。(トロツキーもユダヤ系。)
しかし革命政府で重要な位置を占めていた大勢のユダヤ人も、
1930年のスターリンの大粛清に遭う。

     

ウラディミール・ホロヴィッツは1903年ウクライナのユダヤ人家庭に生まれる。
母にピアノの手ほどきを受け、9才でキエフ音楽院に入学。17才で卒業。
ソ連国内での演奏活動を始めるが、シュナーベル (ベートーヴェン演奏高く評価された
名ピアニスト。グレン・グールドにとっても子供の頃のアイドルだったらしい。)
に師事するという理由で出国。そのまま亡命生活に入った。
丁度ソ連ではユダヤ人への風当たりが強くなっていた頃である。

1928年にアメリカデビュー。驚異的なヴィルテュオーゾ、世紀の大ピアニスト
として、世界にその名を馳せた。

現在もそうなのかもしれないが、当時の米国の聴衆は曲芸師的な名人芸に
拍手喝采する傾向があったという。
その雰囲気を、ツァーで訪れたリヒテルは、こんな国に亡命するなんて
考えもしなかったと言い、
各国のコンサート廻りをしていた吉田秀和氏も、あまり好きではなかったらしい。

ホロヴィッツは演奏活動を4回中断している。
その度に、トスカニーニの娘である奥さんのワンダさんに叱咤激励されて、
公演に復帰したが、神経質なところがあったという彼は、本当は
熱狂する聴衆の前で弾くのは好きではなかったかもしれない。
 30歳ほど年下のグレン・グールドが、あっさりコンサート活動をやめてしまった時、
どのように感じただろうか。

不調に終わって、吉田秀和氏に「ひびの入った骨董」と評された83年の第1回来日公演後、
見事に復活し、86年の里帰り公演、モスクワコンサートの録音を聴くと、
並々ならぬ熱のこもり方を感じる。異様なほどの高揚感。
私がホロヴィッツに惹き込まれたのは、このモスクワライヴを聴いてからである。
 
 
 
 ー 続く ―






Posted by Ru Na - 2014.02.28,Fri
故天野祐吉さんの言葉を借りれば、「世界村の運動会」であるソチオリンピックの
最中に、ウクライナの動乱はますます悪化し、ヤヌコビッチ政権が崩壊した。
旧ソ連邦から独立した国々の中でも、比較的先進的な大国というイメージを
もっていたので、ウクライナでの流血騒ぎは、ショッキングな出来事だった。
親ロ派と親EU派の対立は以前からニュースで聞いていたが、
ここまでエスカレートしてゆくとは。予断を許さない情勢が続いている。

私はウクライナについてあまりよく知らない。
中世期のキエフ公国建国にヴァイキングが関わったこと、
ロシア同様、200年以上「タタールのくびき」の下にあったこと、
エイゼンシュタインの映画「戦艦ポチョムキン」で有名なオデッサの階段は
ウクライナにある、といったくらいである。
旧ソ連時代のソ連の3大バレエ団の一つがキエフバレエ団。
振りの大きいダイナミックなモスクワバレエ、エレガントなレニングラードバレエ
に対し、キエフバレエはどこかチャーミングで、私の好みだった。
キエフバレエ「森の詩」が、そのまま私のウクライナのイメージになっていた。
旧ソ連のとてつもないピアノの巨人たち、リヒテルやギレリス、
この二人の師匠であるネイガウス、それにホロヴィッツがウクライナ人であったとは
後年知った。

                

ずい分前、ホロヴィッツばかり聴いていた時期がある。
その音色には、一度魅せられると離れ難い魔力がある。
去年ラジオで、久しぶりにホロヴィッツの特集番組を連続して聴いていて、
改めてその音色にある憂愁を感じた。
同時代のリヒテルの音は、攻撃的なところがあるけれど、とてもポジティブ。
どんな気分の時でも、拒絶反応が起きることがない。
吉田秀和氏は、奥様を亡くされた時、一時期どんな音楽も聴きたくなくなったが、
リヒテルの平均律だけはすんなりと心に入っていった、と書かれている。
対してホロヴィッツは、聴く“時”を選ばないと大変危険。

ホロヴィッツの柔らかな音色は、暗いというより、
これはひどく孤独なものを含んでいる音だと気付いた。
グレン・グールドの音色にあるのは、生物としての根源的な孤独感。
家族や仲間と群れていても、誕生も死も、その個固有の、独りきりのもの
という、人以外の生物が皆、常に忘れずに内在させている種子のように思える。
ホロヴィッツのそれは、また別種の人間社会由来のものではないだろうか。
それは、その時代、その場所で生きるという孤独。

若い頃に米国に亡命し、大指揮者トスカニーニにその才能を見出され、
その娘婿になり、「ホロヴィッツは社会現象」とまで云われるほど
米国の聴衆に熱狂的に受け入れられ、ラフマニノフは彼のために曲を書き、
ピアニストとしてはとても恵まれた境遇にあり、
1989年86歳で亡くなった後も、世紀の天才ピアニストとして
その名は輝きを失うことがない。
それなのにその音色の暗さは、若い日に後に自ら捨てた故国への望郷の念が
込められているのだろうか。





     






Posted by Ru Na - 2013.08.28,Wed

NHKのFMラジオでホロヴィッツ生誕110年記念特集をやっている。
20世紀を代表するピアニストの一人、ウラディーミル・ホロヴィッツ。
旧ソ連のウクライナに生まれ、世紀のヴィルテュオーゾとして
アメリカで活躍したこの稀代なピアニストの演奏を改めて聴くと、
そのこの世のものとは思えないテンションの高さ、
その音色と演奏スタイルの多様性に驚かされる。
この上もなく繊細で優雅なシューマンやスカルラッティがあると思えば、

背筋がぞくぞくするような恐ろしいムソルグスキーやラフマニノフがあったりする。
天才と○○は紙一重と云うけれど、正気と狂気のぎりぎりの境から
出てくるような音を聴いていると、平静ではいられなくなる。

「音楽はあなたにいつも優しい。」という決まり文句で始まる
弾き語りのラジオ番組があるが、このフレーズを聞いていつも私が
「そんなことはない。音楽は時によってとても危険。」と思うのは、
こんな演奏を知っているからである。

年齢差はあるけれど、ホロヴィッツとグレン・グールドは
同時代の北米で活躍した。
互いに複雑な感情をもっていたらしい。
ホロヴィッツについても、また機会を改めて書きたいと思っている。



 
 
 

Posted by Ru Na - 2012.12.30,Sun
5月に音楽評論家吉田秀和氏が亡くなった後も、残された原稿を元に
そのシリーズが続いていたFMラジオ番組「名曲のたのしみ」も、いよいよ最終回。
特別番組が今日の午後、5時間近く放送された。


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 この長寿番組の90年代以前の録音が
 放送局に残っていないとのことで、
 だいぶ前からリスナーに、録音テープの提供が
 呼びかけられていた。
 まだ全部は揃っていないらしいが、
 月に一度の「私の試聴室」を中心に、
 テーマごとに過去の番組の一部が
 放送された。
 それで、私がこの番組を聴き始める
 以前の話を聞くことができた。

 最初は同作曲家の曲の、 
 色んな演奏家による聴き比べ。
 スカルラッティとショパンが取り上げられた。

 


ギレリスの繊細さ、ホロヴィッツの音の持つ色彩。
そして、ルービンシュタインによるショパンのワルツ嬰ハ短調。
このワルツは、高校生の頃、放課後音楽室に集まった女の子たちが弾き競う
定番の曲だったが、私にとってもショパンの魅力に惹き込まれた特別な曲だった。
曲の終わりのあたりの響きに、何故かパリの空気そのものが感じられて、
仏留学から帰国した頃、やたらこの曲ばかり弾いていた。
それもそのはず、ショパンは故国を離れてからパリに生き、パリで亡くなったのだから。

ショパンに惹きつけられ始めた十代の頃、TVでルービンシュタインがこのワルツを
弾く番組を見て、この曲の最も好ましい解釈だと思った。
それは今も変わらない。
その理由を今回、吉田秀和さんが「客観的なショパン」と評する言葉を聞いて、
まさしくそのとおり、と納得したのだった。
「この人のショパンを聴いていると、人生そう悪いものではないという気がしてきます。」

ショパンの音楽は、うつろい消え去るものへの哀惜の想いに満ちている。
とどまることがない時の流れに、人生が思うようにならない「切なさ」。
このような音楽には、情感のストレートな発露より、存在の悲哀を少し離れたところから
見つめた方が、去りゆく時のきらめきを惜しみ悲しむ情が、懐かしい風の香りに想うような、
思い出の中の透明な美しさまで昇華されるような気がする。

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番組はその年亡くなった音楽家への追悼特集、
それを聞くとその演奏家の演奏が聴きたくなる
名批評と続いた。
イギリスの作曲家ブリテンのオペラがかかると、
庭にミカンやリンゴを食べに来ているヒヨドリが、
窓辺で一緒に可愛らしい声で歌っていた!



吉田秀和さんがよく取り上げた演奏家として、
マルタ・アルゲリッチと、そしてもちろんグレン・グールド。
それから番組の終の方で、マレイ・ペライヤによるモーツァルトのピアノ協奏曲No.27。
このモーツァルト最後のピアノ協奏曲は、私もモーツァルトの中で特別好きな曲。
「彼の音楽にはとても深い悲しみがあって、それは他の人の入る余地のないもの。」
という言葉は、氏と親交のあった小林秀雄の有名な「疾走する悲しみ」と並んで、
モーツァルトの音楽のあまりにもの美しさの本質をズバリと言い当てているのでは。
モーツァルトの名演奏家として、ペライヤを氏はとても高く評価していたらしい。
ペライヤのナイーヴなバッハを私も好きだけれど、今度もっとモーツァルトも聴いてみよう。

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 年末の慌ただしさが嫌いである。
 腹ただしいくらいの気ぜわしさの中で、
 吉田秀和さんの暖かで優しい口調と共に
 音楽に浸りながら、色んな用事をしていた
 この日、豊かな時間を持つことができた。




改めて聴く吉田秀和さんの、言葉による的確な評。
音楽というこの名状し難く捉え難いものを、これ以上ピタリと言い表すことは、
出来ないのではないかと思われるくらい、平易で明快な言語表現によって、
その音楽がより身近で具体的な、まるで手で触れる何かになったように思えてくる。
吉田秀和氏の言葉には、書かれたものも語られたものも、直接心に入り込み、
何か心の底まで洗われるような、澄みきった想いにさせられる。

今回集まった過去の録音を全て、もう一度再放送して欲しい。
日常に寄り添うラジオの放送で、これからも吉田秀和さんの言葉に、
定期的に触れたいから。

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Posted by Ru Na - 2012.11.24,Sat
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  澄んだ青空の一日。
  夕方、クリスチャン・ツィメルマンの
  コンサートを聴きに
  県立音楽堂に出かけた。

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ツィメルマンはポーランド生まれ。
1975年のショパンコンクールの
優勝者で、現在活躍する、世界の
最も優れたピアニストの一人である。


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ショパンコンクールで一位を獲得した頃は、日本でジベルマンと表記されていた。
その後、研鑽を積むため、あまり表に出ず、再びその活動が聞かれるようになった頃は、
ツィマーマンと呼ばれるようになっていた。
そして今回のコンサートでは、ツィメルマンである。混乱するので統一して欲しい。

ドビュッシー生誕150年記念でドビュッシー中心のコンサートの触れ込みで、
最終的なプログラムが決定したのは、かなり最近らしい。
金沢では、 ドビュッシー 版画より
              1.パゴダ 2.グラナダの夕べ 3.雨の庭
       
        ドビュッシー 前奏曲集第1巻より
              2.帆 12.吟遊詩人 6.雪の上の足跡 8.亜麻色の髪の乙女 
              10.沈める寺 7.西風の見たもの
       
        シマノフスキ 3つの前奏曲(「9つの前奏曲 作品1」より)

        ブラームス  ピアノ・ソナタ第2番 嬰ヘ短調 作品2

のプログラムだった。
開演は5時。そのために4時過ぎには家を出なければならず、
午後の用事を大急ぎで片付けて、せわしない思いで出かけたが、
演奏会は素晴らしいの一言に尽きた。

お気に入りのバルコン席で、手の動きを真上から見ることができた。
横長の楽譜を広げて、大きな太い指の手が白黒の鍵盤上を軽やかに行き来する。
大音量の強音から弱音までの音の幅が非常に広いのに驚いた。
ペダルをとてもよく使う。
ペダリングで響く音の余韻が消えるのを聴いてから次の音が来るので、
「間」のような空間が生まれ、ドビュッシーのテンポは少し遅めだと思った。
音は真直ぐ上に登ってくるので、ピアノの弦の振動音に微かな共振や雑音が混じるのまで
聞こえる。これはCDでは体感できない、まさしくヴィルテュオーゾの生の音。
ペダルによって音の輪郭の外側に茫洋とした広がりが出来るのだが、
芯の一音一音ははっきりしていて、特に左手の旋律が、全く独立した対位法のようにも
思えるほどのメリハリを作り出していた。
その色彩豊かな音色に、印象派絵画に対して印象派音楽と呼ばれるドビュッシーの、
印象派絵画に見られる手法との共鳴や共通点を、改めて実感させられた。

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第2部、シマノフスキは初めて聴く曲。
繊細さと情緒が熱を帯びてゆく響きに、ホロヴィッツのモスクワ・ライヴに収録されている
スクリャービンの練習曲を連想してしまった。

次のブラームスのピアノソナタ第2番も初めて聴いた。
ブラームスのごく若い頃の作で、あまり演奏されない曲のようだが、
これがこの公演のメインで、その迫力に会場は完全に呑み込まれていた。
ひとつの主題のフレーズが、左手の低音と右手の高音で繰り返されるのは、
まるで男女の会話のよう。4楽章からなるゴツゴツとして、スケールが大きい曲。
クララ・シューマンへの想いが逡巡しているような曲展開だなあ、などと
聴きながら思ったのだった。
実際はブラームスがこの曲を作っている時、クララと知り合っていたかどうかは
知らないのだが。

  ( この文を書いてからちょっと調べてみたら、作曲は1852年。
   翌年にはすでにロベルト・シューマンと親交があり、1854年改訂をした後、
   クララに献呈したらしい。
   当時の作曲家はバッハ以来の伝統で、楽曲に言葉を織り込む遊びを
   よくしていたらしい。シューマンの曲にはクララという言葉が随所に隠されている、と
   解析しているTV番組を見たことがある。
   誰か専門家がこのブラームスのピアノソナタをアナリゼしてくれないかしら。)

夢見心地で会場を出ると、すっかり夜。

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 音楽堂横の金沢駅の
 夜の光景。





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駅前のライトアップされた噴水。
















Posted by Ru Na - 2012.07.22,Sun
NHKFMの「名曲の楽しみ」は、音楽評論家・吉田秀和氏による、
一人の作曲家をとりあげ、その全曲を連続放送する長寿ラジオ番組である。

吉田秀和氏がラフマニノフの連続放送中の5月に亡くなって、
途中で終わってしまうのかとがっかりしていたら、
氏の生前に録音されたものが先週まで放送され、独特の語り口で番組の終わりに、
「それじゃ、また。」といつものように締めくくられていたのだが、
収録されていたのはその回までだった。

今週から、氏が残したメモによるシベリウスのシリーズが、
番組のディレクターの語りによって始まった。
放送が年内いっぱい分くらいのメモが残っているらしい。
淡々としたディレクター氏の話しに、吉田秀和さんの声が重なってくるような気がした。

いつも新たな作曲家のシリーズが始まる度に、あの曲にはどんな演奏家のものを
取り上げるのだろうと、予め想像しては楽しんでいたが、
今回も、シベリウスのピアノ・ソナチネや小品には、きっとグレン・グールドの演奏が
選ばれているのだろうと想像して楽しみにしている。

シベリウスといえば、交響詩「フィンランディア」やバイオリン協奏曲ニ短調が
最も知られた曲かもしれない。
私にとってはまず、交響詩「トゥオネラの白鳥」の作曲家である。
中学時代この魅惑的な題名を少女漫画で知り、実際に聴いたのはその数年後だった。

resize6209.jpgフィンランドの神話「カレワラ」に
出てくる伝説の白鳥。
この世と冥府の間に横たわる
トゥオネラ河に浮かぶ大白鳥は、
あの世への手引きをする。

北欧の冷たく白い空気に
融け入るような響きを持つ
この曲を聴くと、
流れる霧で辺りが包まれて
いくような心地にさせられる。



                
                      河北潟のコブちゃんにトゥオネラの白鳥に扮してもらいました。


美大生時代の西洋美術特論で、人間には北方系と南方系のタイプがあって、
北方系の人は、ゴッホの様に南の明るい光に惹かれ、南方系は北に憧れる傾向がある
という、興味深い話を聞いた。
冬が長く暗い北陸の私は、やはり南の明るい土地に行ったら人生観が変わるような気がして、
地中海沿岸の都市に留学した。
(その頃は夏が嫌いではなかったし、金沢の夏はこんなに暑くなかったので、
むしろ、寒さと暗い冬から脱出したかったのだった。)

しかし北方系の本性は従いて回って、南の大胆な形と色の植物より、
繊細で微妙な色彩を持つものが好き。音楽も文学もスペインよりドイツのものに惹かれる。
そうひどく暑くない南仏の、カラッとした大気と陰の青さ。糸杉とオリーブ畑が続くプロヴァンスは
私の第二の故郷だけれど、同時にやはり北に惹かれ、回帰したい自分がいる。

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  バルト海
  夏の夕暮の風景











知っている北欧の作曲家は、せいぜいグリークとシベリウスだが、
いずれも楽曲の中に何か独特の響きがあって、(北の白い空気と云えばいいのか)
それが心をいたく捕えるのである。
例えばグリークのピアノソナタホ短調。
グリークが音楽院の学生だった頃の習作というが、とてつもなく暗い曲である。
そしてグリークの遠縁にあたるグレン・グールドがグリークの曲で録音を残した唯一のもの。
これまた、何があったの?と問いたくなるくらいグールドにしてはとても暗い演奏だが、
その第2楽章は、北欧の空気づくしで、聴いても弾いても白夜のような雰囲気に
心底涼しい心地がする。

シベリウスの3つのソナチネや3つの抒情的小品が入ったCDは、
グレン・グールドの数ある録音の中でも私のお気に入りで、
特に暑い夏に聴くと、芯から涼しい心地になる。
雪に覆われた林の中の小道を、橇の鈴音が遠ざかっていくようなフレーズは、
本当に極寒の空の彼方にいつまでも銀の残響が消えずにいるような不思議な響き。
と思っていたら、グールドはこの録音の時、音の空間を作るため
実験的にいつもの倍のマイクを使ってみたということを、後に知った。
この魅力的な曲集の楽譜が欲しいと思って、今だ手に入れることができない。

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 ストックホルムから
 ヘルシンキに向かう
 夜行船の中から。
 いつまでも日が
 沈まない。












貧乏学生の夏休みの、リュックを背負ったせわしない貧乏旅行で訪れた北欧。
今となっては、もっとじっくり回ればよかったと思われる。
せめてシベリウスを聴いて、北の大地に思いを馳せよう。

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  海上から望む
  ヘルシンキの街。











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   ヘルシンキの港近く。
   コブハクチョウが
   沢山海に浮かぶ様を
   撮影しなかったのが残念。






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Posted by Ru Na - 2012.06.06,Wed
吉田秀和氏の最後の著作となった四部作、「永遠の故郷」は、それぞれの巻に
夜、薄明、真昼、夕映というタイトルが付いていて、
それまで氏があまり書いてこなかった歌曲について、氏の若い頃の思い出と共に
語られる。

最後の巻「夕映」は、ベートーヴェンに始まり、シューマン、ラヴェルにとんで、
シューベルトで締めくくられる。
その最終章は、「冬の旅」の「菩提樹」。

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  表紙にはパウル・クレーの「忘れっぽい天使」の絵が
  使われている。
  
  吉田秀和著「ソロモンの歌 一本の木」の中には、
  この絵の筆順を考察した章がある。
  時間軸に沿って展開する音楽同様、
  絵画も、その生成の過程を追って分析される。








吉田秀和氏に4日先立つ5月18日、名バリトン歌手フィッシャー・ディースカウ氏が亡くなった。
ディースカウはオペラでも活躍したが、何といってもドイツ歌曲の歌い手として、
ヘルマン・プライ、ペーター・シュライヤーと並ぶ3大歌曲歌手。
20世紀最高のバリトン歌手と言われてきた。
ディースカウは早々にコンサートから引退したので、この3人の内で唯一、
私が生でその声を聴く機会がもてなかった歌手である。

ヘルマン・プライについては、私は早くから知っていて、その暖かな歌声に魅せられていた。
オーケストラ・アンサンブル金沢を立ち上げた芸術監督、岩城宏之氏の御友人という縁で、
プライ氏は金沢で2回コンサートを開いた。まだ県立音楽堂が出来ていない頃である。
それはもう、喜び勇んで聴きに行って、普段CDで聴くよりずっと微妙で陰影に富んだ歌声に
酔いしれた。
2度目のコンサートが、オーケストラをバックにした「冬の旅」だった。
終曲、「辻音楽師」は、空気に溶けていくように静かに終わり、
ほどなくしてプライ氏は亡くなった。

ペーター・シュライヤーの歌い振りという、何とも贅沢なJ.S.バッハの「マタイ受難曲」が
金沢で演奏されたのは、数年前。
同時に「冬の旅」のリサイタルも行われ、こちらも聴きに行った。
日本の端っこの小都市の、空席が目立つ音楽堂で、
こんな世界的な歌手が、果たしてどの位この演奏会に力を入れてくれるかしらと、
始まるまで何となくそわそわしていたが、何という入魂の歌唱だったのだろう。
独語は僅かな単語しか分からない私でも、この暗く絶望的な「冬の旅」の詩句
ひとつひとつが、心を抉ってくるようだった。
魂をわし掴みにされ、揺さぶられるとは、こういうこと。
どうやって家に帰り着いたか覚えていないくらい、圧倒的な強烈な体験だった。

翌年、歌手を引退したシュライヤー氏は、また金沢で「ヨハネ受難曲」を指揮した。


それを読まないで人生を過ごしてしまうには、あまりにも惜しい書物が確かにある。
トーマス・マンの「魔の山」も、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」や、ドストエフスキーの
「カラマーゾフの兄弟」と並んで、そんな文学の一つだと私には思われる。

長年買い置いたままになっていた「魔の山」に手を付けたのは、
交通事故で全身打撲し、「水平生活」を余儀なくされた時期のことだった。
ハンス・カストルプ青年が大学入学前の休暇に、スイス山中の結核療養所に
従兄弟を訪ね、肺に問題が見つかった彼も、はからずもそのまましばらく
滞在することになってしまう。
そして、地上から離れたダボスの、澄んだ空気の中で出会った様々な人から、
いろんな事を学んでいく。
(登場するロシア貴族のサーシャ夫人は、詩人ポール・エリュアール夫人で
後にサルバドール・ダリの愛妻になったガラがモデルらしい。)

印象的なのは、院長が患者の集まるサロンに置いた蓄音機に、
カストルプ青年はのめり込み、次々と院長自慢のレコードコレクションを聴いてゆく場面。
中流家庭に育ったごく平凡な青年と紹介されるハンス君は、なかなかどうして
「歌劇アイーダ」の、終幕で閉じ込められた恋人たちの、絶望的な嘆きの歌の
心の襞に涙するくらい、イタリア語のニュアンスが解るのである。

「魔の山」を読んで、そこに出てくる音楽を聴き直したくなる人は多いのでは。
私も早速「アイーダ」のCDを買いに行った。
明るい子供の歌として、長調部分しか知らなかった「菩提樹」を、
シューベルトの歌曲集「冬の旅」の中で、暗い短調部分を含むオリジナルを聴いた時の
青年の驚き。
私もそういえば「冬の旅」を全曲通して聴いたことがなかったと気づき、
そこで百貨店内のCD売り場で手に入れたのが、ディースカウによる「冬の旅」だった。

cd808960.jpeg  色んな演奏家による「冬の旅」のCDの中で、
  これを選んだのは、
  A.ブレンデルが伴奏を弾いていたからだったが
  その頃あまり知らなかったディースカウの
  柔らかで深みのある声に、すっかり魅了され、
  何度も何度も繰り返し聴いた。
  歌詞の対訳を読みながら、
  何と暗い歌かしら、と思いつつ。






カストルプ青年の静かな「水平生活」は、第一次世界大戦の暗雲に呑まれていく。
銃弾飛び交う戦場で思考が止まって、ただ泥や硝煙中を行軍する青年は、
無意識に歌を口ずさんでいる。あの「菩提樹」を。

吉田秀和氏の「永遠の故郷」の終章も、
このカストルプ青年の「菩提樹」で幕が閉じられたのである。


     今の私はあすこからずっと離れたところにいる。
     でもあのざわめきはいつだって、耳から離れない。
     「お前の心の安らぎはあすこにあるのだよ。」


     「お前の心の安らぎはあすこにあるのだよ。」





Posted by Ru Na - 2012.05.31,Thu
太陽が月に隠れ再び姿を現した翌日、心を照らすもうひとつの光が地上から永遠に失われた。

吉田秀和氏 音楽評論家 98歳
急性心不全により鎌倉の自宅で5月22日午後9時死去。

その光は陽の光というより、あるいは、静かで清らかな光線をそっと内面の奥深くまで届ける
月の光と形容した方がよいのかもしれない。

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訃報を知ったのは、27日のラジオの昼のニュースだった。
前日の土曜日、夜9時からのNHKFMラジオの氏の番組「名曲のたのしみ」で、
いつも月末に放送される「私の試聴室」を聴いたばかりだった。
シューベルトの交響曲第1番と第2番。
  「シューベルトの若い頃の交響曲はあまり演奏される機会がないけれど、
   この間ピリオド楽器による演奏を聴いたら、とってもおもしろかったので、
   みなさんに紹介します。」
と、いつもの柔らかな語り口で曲を説明されていていた。

氏がたいそう高齢なのは知っていたが、近頃100歳を超えても現役で活躍している方も多く、
ラジオで氏の生き生きした感性に触れる度に、
毎週楽しみにしていたこの時間が、この先ずっと続くように思っていたのだった。

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私が吉田秀和氏のラジオ番組「名曲のたのしみ」で、作曲家の全曲連続放送を
ほぼ欠かさずに聴き始めたのは、確か2000年前後、シューマンからである。

朝日新聞に月一回掲載された「音楽展望」を、意識して切り抜きを始めたのは、
地下鉄サリン事件があった95年。
その年亡くなったピアニスト、ミケランジェリとサリン事件を、人間の光と闇の対比として
捉えた回からだった。
私にとって朝日新聞は、故加藤周一氏の「夕陽妄言」と吉田氏の「音楽展望」を読むための
新聞だった。(それともう一つ、楽しみにしていた大江健三郎氏の「定義集」も
この春で連載が終わってしまった。)

「音楽展望」は、7年前氏が、日本文学、特に永井荷風研究者の夫人バルバラさんを
亡くしてから、季節毎、年に四回の連載になっていたが、
「名曲のたのしみ」は毎週休みなく、ドボルザーク、メンデルスゾーン、プロコフィエフ、
ショスタコーヴィチ、ベルリオーズ、R.シュトラウス、チャイコフスキー、プーランク、
ハイドンと続き、ラフマニノフの連続放送が昨年11月に始まった。

プロコフィエフからは、ほぼ毎回録音するようになり、最初はテープ、それがMDに代わり、
その間少しづつ買い揃えていった氏の著作も、本棚に増えていった。

「私の試聴室」で、アンジェラ・ヒューイットやヒラリー・ハーンという素晴らしい演奏家を知り、
著作を通じて知った曲や演奏家のCDを探しに行ったりもした。


今、吉田秀和氏の本を、どれでも一冊手に取って、どれか一文を読むと、
心洗われる美しい文章に、音楽や世界に対する愛の暖かさが、再び蘇ってくる。
吉田氏の文章を読むと、音楽が聞こえてくるようだ、と何人もの人が書いているが、
同時に私には、吉田秀和さんの声も聞こえるような気がする。
そして、流れてくるのは、R.シュトラウスの「四つの最後の歌」の「夕映えに」。


   おヽ、広々と静かな安らぎ、
   夕映えの中で かくも深く
   私たち 何とさすらいに疲れたことか
   もしかしたら、これは、死?



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Posted by Ru Na - 2012.02.10,Fri
去年の12月、映画 「グレン・グールド The Inner Life」 を劇場で見た頃、
現在日本で手に入るグールドの映像のDVDで、まだ私が観ていないものが在ることに気づいた。
劇場未公開の「グレン・グールド エクスタシス」。

ネット上のカスタマーレヴューの点数はいたって低く、曲の断片しか聞かせてくれない、や、
G.G.関係者へのインタヴューばかりで肝心のグールドの映像が少なすぎる、
といった趣旨の書き込みが多かった。

新品はもう販売しておらず中古品のみ。注文して届いたものを、
さてどんなものだろうと観てみると、私には興味深い点が幾つもあった。
カバーケースには、恰好のグールド入門編」と書かれているが、
今からグールドの事を新たに知りたいという人には、確かにあまり面白くないかもしれない。
むしろG.G.についてある程度知っている者向きのように思われた。

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この映像は、グールド没後25年の2007年に、カナダで行われた国際シンポジウムや
色んな記念行事の一環として、TV放映用に制作されたものではないだろうか。
B.モンサンジョンなど、グールドの直接の友人達の他に出てくる人の多くは、
カナダではよく知られている文化人なのだろう。


グールドの映像としては、去年発売されたカナダ放送協会所蔵の映像を集めた10枚組DVD、
GLENN GOULD on TELEVISION  で彼の演奏風景がたっぷり見られる。
(1992年にリリースされた「グレン・グールド コレクション」は、B.モンサンジョンが
このアーカイヴを元に編集したもの。)
ただ日本語字幕がないので、英語のヒアリングが苦手な者にとっては、
グールドの曲説明が十分分からなくて、ストレスも溜まる。
早く日本語版が出て欲しいものだ。

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「グレン・グールド エクスタシス」の中に、現在カナダを代表するピアニストの一人、
アンジェラ・ヒューイットへのインタビューが出てくるのが、嬉しい驚きだった。
A.ヒューイットはカナダ出身でバッハを多く弾くことから、よくグールドと比較されて、
本人はもうあまりグールドを引合いに出さないで、と言っているらしいと聞いたことがあるが、
彼女のピアノの先生が、グールドの師ゲレーロ氏の婦人だったとは知らなかった。

A.ヒューイットを日本に最初に紹介したのも吉田秀和氏だと思う。
私も氏のラジオ番組で知って、その独特の音色と爽やかさに心惹かれて、
数年前、大阪でのリサイタルを聴いた。
コンサートの後のサイン会で、アンジェラさんは一人々に気さくに話しかけていた。
フィルムの中のアンジェラさんは、その時私が感じた陽気で飾らない人柄そのままの表情で、
グールドへの賛辞を述べていた。

そのコンサートで聴いた、バッハの「フランス風序曲」の音色が耳に残って、
ずっと頭から離れなかった。
この曲が入ったCDを購入して再び聴いたのはずっと後だが、
その音色は記憶の中のものと変わらなかった。

A.ヒューイットは近年、FAZIOLIピアノを愛用し、コンサートにも持ち込んでいるという。
このピアノを使用する以前の録音のCDを(F.クープランなど)何枚か持っているが、
やはり彼女特有の音の響きがある。
ピアノの音が独り言のような人の声に聞こえるのである。

グレン・グールドの音色に関しても、私は人の声を感じる。
様々な恋の事件は、この天才ピアニストの人生観に何らかの影響を及ぼしては
いるのだろうが、ごく初期の録音から、グールド独特の音色や音の語りかけは一貫している。

ブラームスの間奏曲集は染入るように美しい。
この瞑想するような静けさは、グールドが亡くなる前再録音したゴールドベルグ変奏曲に
通じるものがある、と長年思っていたら、このブラームスはグールドが若い頃の録音だった。
あの感動的なベートーヴェンの最晩年3大ピアノソナタにしても、早い時期の録音である。
年代をあまり気にしないで聴いていて、人生への達観が感じられるような演奏はみな、
晩年の録音だと最初思い込んでいたが、それの多くが若い頃の演奏と知って驚くのは、
私はグールドの存命中のリアルタイムの歩みを知らず、没後に録音をまとめて聴いたから。
まるでこの人の人生は、ゴールドベルグ変奏曲のように円を描いて循環しているのでは、
とさえ思えてくる。天才とはこういうものであろうか。






Posted by Ru Na - 2011.12.25,Sun
「G.G. シークレット・ライフ」によれば、グレン・グールドがコーネリア・フォスと知り合ったのは、
コーネリアの夫、ルーカスを通じてであった。

ルーカス・フォスは有能な指揮者・作曲家で、レナード・バーンスタインとも親しく、
彼と演奏会のリハーサルをしている時に、突然グールドが現れた。
その少し前にフォス夫妻が車に乗っていると、カーラジオからG.G.のゴールドベルグ変奏曲が
流れ、ルーカスは思わず車を停めて聴き入っていた。
グールドもルーカスを尊敬していて、二人はすぐ親しくなり頻繁に電話で話したらしい。

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 グールドは指揮者レナード・バーンスタインと
 親しくしていて、何度か共演している。
 左は物議をかもしたコンサート、
 ブラームス・ピアノ協奏曲No.1のCD。
 テンポに対する二人の意見が合わなくて、
 バーンスタインが演奏前に時々していた
 スピーチでその事を話したら、
 新聞に「誰がボスだ!」と、
 スキャンダルとして書かれてしまった。
 映画でも大きく取り上げられている。









この交友の中で、次第にグールドとフォス婦人、画家のコーネリアは惹かれ合っていき、
フォス夫妻が破綻寸前になった時、コーネリアは二人の子供を連れてグールドの元に走った。

「夫は笑って送り出してくれました。なぜ笑うのと聞いたら、君はいずれ戻るだろう、
と答えました。」 と映画の中でコーネリアさんは語っていた。

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ルーカスは妻を取り戻すまで
4年以上待たなければならなかった。
グールドは夫妻の離婚が
成立しだいコーネリアと正式に
結婚するつもりでいた。

グールドは子供たちを
とても可愛がり、
映画の中でも大きくなった二人が、
とてもなつかしそうに、
もう一度会いたかった、と
語っていた。


いろんな理由で、やはりこの天才と一緒に生活するのは無理と判断した彼女は、
子供を連れて夫の元に帰っていった。
可哀想なG.G.。ずっと諦めきれなかったらしい。
74年初夏、グールドは長い道のりを車でとばしてコーネリアに会いに行っている。
それからもこの別れはグールドにとって長く尾を引いていたらしい。

75年グールドはソプラノ歌手、ロクソナーラ・ロスラックを、カーラジオを介して
見出し、その後ヒンデミットの歌曲「マリアの生涯」を一緒に録音している。
控えめで内気な性格だったらしいウクライナ系の彼女の緊張は、グールドの優しい心遣いや
ユーモアで完全に解きほぐされたのだろう。
そしてまた一枚、グールドの傑作のレコードが世に出たのだった。

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このCDジャケットの写真はとても印象的で、まるで恋人同士のようと思った人も
多かったらしい。
実際二人は心を通わせるようになったらしいが、控えめなロスラックは多くを語りたがらず、
今だに二人は本当に恋人同士だったのか、友人たちにも謎らしい。
ただ、この写真をレコードジャケットに使うのに、グールドはとても積極的だったというから、
自分の元を去った女性たちに見せたかったのかもしれない。

グールドの奇行とされている事のひとつに、今まで親しかった人との交友を、
突然一方的に断ち切る、というものがある。
断交された側は、その理由も分からず戸惑うばかりだったらしい。
この事をもっても、グールドはアスペルガー症候群だったと断じる人もいるが、
本当のことは分からない。
私には、野生動物が何かの拍子に人に好意的になり、何かの拍子にふいっと
いなくなるという、人間の頭では理解不可能な行動に出るような、
そんなふうに思えてしまう。

「グレンは年取った家畜や、役に立たなくなった動物たちが安心して幸福に暮らせる場所を、
どこかに作りたいと、いつも夢見ていました。」 (グールドの従姉妹、ジェシー・グレイク)

その候補地、お気に入りのマニツリン島にグールドはロスラックを案内している。
草地が広がる自然の天国で、二人は牛たちにマーラーを歌って聞かせた。
その映像が映画にチラッと出てきて、TV番組「グレン・グールドのトロント」の、
動物園の象の前でグールドが歌う場面に移ってゆく。

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ロスラックも一方的に
その交友を断ち切られた。
それでもグールドとの
暖かい思い出を、大切に
し続けているという。

映画の中で、現在の彼女が
話す姿を見たが、どこか苦しげで、
本当はこんなふうに公に
ひっぱり出されるのが
辛かったのではないかと
思ってしまった。
高音域の歌手の地声が
低いのも、ちょっと意外だった。


映画の後半には、
プロコフィエフのソナタ、
ブラームスのバラードなどが
使われ、シベリウスも流れる。

続いて登場するのは、ペトラ・クラーク。
グールド・ファンなら誰でも、彼がバーブラ・ストライサンドやペトラ・クラークの
大ファンだったことを知っている。
私は、ストライサンドはともかく、ペトラ・クラークがどんな歌手か知らなかったが、
「ダウン・タウン」は聞いたことがある。
グールドのラジオ・ドキュメンタリーに取り上げられたペトラは、
「会ってみたかった。会えばきっとお互いに得るものが沢山あったでしょう。」
と言っている。
彼女はグールドの葬儀には加わっている。

とてもナイーヴに進行してきた映画だけれど、途中から役者がグールドの格好をして
歩く遠景が挟まれる。
別の映画「グレン・グールド ロシアへの旅」でも同様だった。
あれはやめて欲しいものだ。

ゴールドベルグで始まった映画はゴールドベルグで終わる。
丁度グールドの短い人生のように。
グールドの眠る墓地では、友人が花を捧げている。
そう、このように彼に関わっていた人たちがいつも訪ねているのだと気づくと、
去年、私の分身鴨(つれあいが私の代わりに連れていったカモの人形)が、
お墓参りをしてきたのが夢のように思われる。

アリア・ダ・カーポが静かに終わると、エンディング・ロールに、
グールドが作曲した、「フーガを書きたいの?」が流れて、
世界がグールドを失った悲しみの気持ちが前向きな気分に変わって、劇場を後にした。

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「G.G. シークレット・ライフ」には、
映画に出ていた女性たちの他に
グールドが恋した何人もの女性の
ことが書かれている。
それではこの実らなかった恋が、
彼の演奏にどのような影響を
もたらしたのか、
レコーディングされた曲と
色んな出来事の年代を、
少し照らし合わせてみた。




ピカソは奥さんが変わる度に、その表現スタイルが変化していった。
そこまで顕著ではなくとも、これらの恋愛によってグールドの演奏に何か特別な変化が
現れているだろうか。
グールドの音楽は常にグールドである。しかしこれらの事を多少心に留めておくと、
微妙に移り変わっていった演奏の謎を解く手掛かりにあるいはなるかもしれない。


 -第4回につづく-





Posted by Ru Na - 2011.12.23,Fri
映画「The Inner Life of Glenn Gould」には、
グールドに関わったいろんな人へのインタビューが多く挿入されている。

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グレン・グールドが1964年にコンサート活動を一切止めるまでに、
57〜59年にヨーロッパツァーを行なっている。

57年はカラヤン指揮でベルリン・フィルと初共演。
翌年再びベルリンでバッハのピアノ協奏曲No.1を弾いた演奏会に、
1日遅れてベルリンに着いた音楽評論家の吉田秀和氏は、
その素晴らしい演奏の評判で持切りのこの若いピアニストを聴きたくて、
次の公演会場であるハンブルクに飛んだが、公演はキャンセルされてしまった。
グールドの生演奏を聴く機会をついに得られなかったことを、
氏はずっととても残念に思っておられるようである。
その後吉田秀和氏は日本におけるグールドの一番の紹介者になっている。

58年はローマで朝比奈隆が指揮するサンタ・チェチーリア・オーケストラで
ベートーヴェンのピアノ協奏曲No.2を弾いている。
そのいきさつは、朝比奈隆氏の著書「この響きの中に」に書かれている。

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     右は朝比奈隆氏の
     1943年の写真。
     氏は戦後間もなく
     ベルリン・フィルを
     指揮している。







最初のリハーサルは体調不良を理由にすっぽかされ、
ゲネプロ(総練習)でも姿が見えない。さすがに心配になった氏は、
「ソリストはまだ来ないのか」と怒鳴ったら、がやがやしている楽団員の間から
冬のコートを着た青い顔の青年が現れて、右手の手袋を脱いでそっと差し出した。
(つまりグールドが自発的に握手を求めたのである!)

「・・・・彼は弾き始めた。その音は小さく時にかすかでさえあったので、
私はしばしばオーケストラにピアニシモを暗示しなければならなかった。
・・・グールドの奏でるピアノの音は、小粒の真珠をつなぎあわせた首飾りのように
滑らかに美しく響き、オーケストラの弱奏と融け合っていった。
いわゆるベートーヴェンの音楽の雄大さ、あるいは力強さでなくて、
その古典的な端正さと清純さがその指先から流れ出るのであった。」

コンサートが終わった後、グールドは朝比奈隆に、寒いし不眠だし食欲はないし
疲れたので、明日のブリュッセル公演をキャンセルして欲しいと駄々をこねたらしい。
「明日のことは明日考えなさい。とにかくかえって寝ることだ。」と説得し、
次の日無事にブリュッセルに飛んだのを確認した、
非常に興味のある、独自な風格のある秀れたピアニストの一人であると、
氏は結んでいる。

先のベルリン公演の後、グールドは体調が最悪になって、
ハンブルクのホテルで一ヶ月の休養をとったらしい。
後年のインタビューで、彼が大好きなトーマス・マンの「魔の山」になぞらえて、
「あれが僕のハンス・カストルプ時代だったんだね。」と述べている。
フィレンツェのコンサートから復帰。朝比奈氏と共演したローマは
まだ病み上がりの時だったのかもしれない。
ケヴィン・バザーナの「G.G. 神秘の探訪」によれば、その後のブリュッセル公演は
やはりキャンセルしたらしい。


グールドのヨーロッパ・ツァーの皮切りはモスクワだった。
57年のモスクワ、レニングラード公演は、冷戦時のソ連を初めて訪れた
北米のピアニストとして記録されている。ソ連邦が彼を招いたのである。

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 モスクワ、レニングラード、
 ストックホルムでの
 ライヴ録音のCD。







映画ではウラジミール・アシュケナージ氏が、モスクワ音楽院大ホールでの
コンサートの様子を語っている。
ソ連ではまだ知られていないこのピアニストのコンサートに、
最初は観客がまばらだった会場が、後半超満員になったのだ。
前半を聞いた聴衆が、これはとてつもないすごい演奏だと、休憩時間に
知人友人に会場に来るようにと、片っ端から電話したのだった。

この有名なエピソードに触れる度、私が感じるのは、
当時のソ連の人たちの驚くべき確かな審美眼(審美耳?)である。
北米ではいつもグールドの天才性と共に、独特の演奏スタイルが取沙汰され、
低い椅子や低い姿勢、弾きながらのハミング、果てはラフすぎるその格好までが、

マスコミに常に面白可笑しく揶揄されていて、
(グールドはタキシードを脱いだ最初のクラシック音楽奏者と言われている。)

その事もグールドが早くコンサートを止めたいと思った一因らしい。
物質主義にとらわれていなかったモスクワの聴衆のほとんどが、
初めて見る演奏スタイルの外観に驚くより、音楽表現そのものの凄さにすぐ反応したという
ことに感銘を受ける。


さて、アシュケナージとグールドとの関係を今まで聞いたことがなかったが、
話しぶりからして、あのコンサート会場に実際にいたのかもしれない。

ウラジミール・アシュケナージ 1937年生まれ
                  1955〜60年 モスクワ音楽院在籍

丁度グールドがモスクワに行った時、モスクワ音楽院の学生だった訳である。
グールドは学生たちの希望で、音楽院でもコンサートを開いている。
ソ連当局が神経を尖らせていた現代音楽、シェーンベルク、ウェーベルン、クシェネクを
事前予告なしにレクチャー付きで披露した。
このような音楽は学生を倒錯させると考えていた教授たちは退席し、
学生たちはばつの悪い思いをしていたらしい。
もしかしたらその中にアシュケナージがいたのかもしれない、と想像するのは楽しい。


resize3545.jpgこのソ連ツァーでグールドは
スヴャトスラフ・リヒテルに
会っている。
酒豪だらけのこの国の
パーティに出たがらない
彼の味方に、リヒテルだけが
なってくれたとグールドは
言っている。


リヒテルとグールドは
互いに感嘆、尊敬
し合っていたというが、
実際に会ったのは
何回なのだろう。

リヒテルがついにゴルドベルグを弾かなかったのは、
グールドの演奏を意識していたからだと言われている。
次の年、第1回チャイコフスキー・コンクールの審査員になったリヒテルは、
ソ連政府の意向を無視して、米国の青年ヴァン・クライバーンを優勝させている。


ジョン・ロバーツがグールドについて、この映画の中で多くを語っている。
55年に(世界を驚愕させた1回目のゴールドベルグ変奏曲がリリースされた年。)
カナダ放送協会の音楽プロデューサーとして彼と知り合い、以来ずっと親しい友人であり、
彼の死後、グレン・グールド財団の初代代表になった人物である。
「グレン・グールド書簡集」 「グレン・グールド発言集」を編纂している。

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現在は別の家族が住んでいるグールドの生家の内部を案内し、
ここにピアノがあった、この棚は楽譜で一杯だった、と話す。
カメラを真直ぐ見て話すJ.ロバーツ氏の薄青い瞳を見ていると、
そこに等身大で生身のグレン・グールドが映っているような気がしてきた。

グールドの助手であったレイ・ロバーツや音響技師のローン・トーク両氏の語る
様々なエピソードにも、グールドが伝説の彼方の人ではなく、
実際にこの人たちの近くで息づいていた存在だったという事が強く感じられた。


グールド研究家ケヴィン・バサーナも多く語っている。
「グレン・グールド 演奏術」 (とてもマニアックで、まだ完讀出来ていない!)、
「グレン・グールド 神秘の探訪」の著者である。

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思ったより若くて柔和な感じの方だった。
「神秘の探訪」は、これまでの伝記であまり考察されなかった、
グールドがあの時代のカナダのトロントで生まれ、生涯そこで過ごしたことの意味や、
彼の晩年に重要な存在だったと思われる一冊の本、夏目漱石の「草枕」について
大きく取り上げている。


    - 3につづく -






Posted by Ru Na - 2011.12.17,Sat
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ベートーヴェンの誕生日の今日、グレン・グールドの新しく封切られた映画
「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独 The Inner Life of Glenn Gould」
を観てきた。

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最近出版された、
マイケル・クラークスンによる
「グレン・グールド シークレット・ライフ」
という本がある。
今まで公にされてこなかった
グールドの恋愛について、
元の恋人たちや関係者に
粘り強くインタビューして、
いろんな検証を重ねて
執筆されたもの。
著者はかって、あの隠者J.D.サリンジャー
を取材して評価を高めた人らしい。


グレン・グールドは、
歿後29年経っても依然、
世界中の人を魅了し続け、
あまたの伝記、評論が刊行され続けている。
あの驚異的な音楽がどうして一人の人間から生み出されたのか
その謎に近づきたいと思う者が世界中に多数いて、各々が「私のG.G.」と思っているのだろう。

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私もその一人で、手に入る限りのCD,書籍を集め、グレン・グールドのことなら
どんな些細なことでも知りたい。
しかし、「カナダの孤独な隠遁者」、「最後の清教徒(グールド本人の言葉)」
と呼ばれ、生涯独身でカナダの大自然と、動物たちと孤独を愛した人の、
秘めておきたかった恋愛が暴かれるなんて、グールドの意に反していると思うが、
この映画の下敷きになっている「シークレット・ライフ」を一応あらかた読んでから
不安と期待が入り交じる気持ちで観に行った。

暴露趣味の映画だったらどうしようと少し心配していたのだが、
グールドへの尊敬と愛と思いやりに満ちた魅力的な映画だった。

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「G.G. シークレット・ライフ」の本が出たと聞いた時、軽いショックと
やはりついに、という思いがあった。
世間は著名人の過去のプライバシーを暴くのが好きらしい。
しかし、グールドとその恋愛となると話は別。
踏み込むべきではない領域に何故今頃とも思ったが、関係者がまだ元気なうちに
いろいろ詳しく聞いておかねば、という切実な願いによるのかもしれない。

どの伝記にも書かれているのは、
とても潔癖性で病原菌を恐れ、夏でも分厚いコートと手袋でガードを固め、
人に触れられるのをひどく嫌い、握手などめったにしなかった。
誰かがくしゃみでもしようものなら、すぐ自分の車に逃げ込んで窓をぴったり閉めていたという。
(そのくせ大好きな犬なら、たとえ鼻水を垂らした犬でも平気で一緒に転げまわって
遊んでいたらしい。)
親しい人とも一定の距離を置いて、直接話すより長電話で話すのが好きだったとも言われる。
(本人もよく、自分は人といるより他の動物たちといる方がくつろげる、と言っていたらしい。)
そういう人物だから、およそ女性と本格的につき合うなんてできなかっただろうというのが
大方の意見のようだった。

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  G.G.写真集より。 モンタリオの
  ストラットフォード・フェスティバルでの
  ダンサーとツー・ショット。
  とても楽しそう。








数あるグールドの伝記で、友人の手によるものでも、
本人があまり触れて欲しくなかったろう部分は、そっと伏せてあるのだが、
同時にファンにとっては、あのような生き生きして明晰な頭脳とユーモアに満ちた
魅力的な若者に恋人がいなかったとは考えにくいことでもあったし、
ある時期から深い陰影が、その音色にも容貌にも加わっていったのが
気になるところであった。
コーネリアさんとのことはある程度知られていた。


この映画は、ブルーノ・モンサンジョンによる映画「グレン・グールド ヒアアフター」(2006年)
と同様に、紅葉するカナダの美しい山林の風景から始まる。
リスト編曲のベートーヴェン交響曲No.6「田園」の演奏が重なり、
「G.G.コレクション」でお馴染みの、渓流を前にして指揮をするG.G.
観客が誰もいないホールの舞台で演奏するG.G.の姿が交錯する映像に移る。

「音楽のない生活は考えられない。・・」というセリフの前にカットされているのは、
「このような自然の前に立つと、下らない上昇志向を忘れられる。
都会の喧騒の中にいると、どうしても皆上昇志向に囚われてしまう。」
という下り。
このグールドの言葉を、私はいつも胸に収めている。
上昇志向とは、地位や名声を得るため創造と別のところで汲々とすること。
(一度大成功をおさめた人のみがそれの拒否を語る資格があるのかもしれないが。)


映画はG.G.の生い立ちから「ゴールドベルグ変奏曲」のレコードで、
世界的なセンセーションを巻き起こし、有名になっていったピアニストの軌跡を
写真や映像と共に追っていく。
前半特によく使われているのは、「グレン・グールド 27才の記憶」からの映像で、
バッハのイタリア協奏曲をN.Y.のスタジオで録音する様子と、シムコー湖畔の別荘での
情景やインタビューを織り交ぜたこの映画のシーンが、効果的に散りばめられている。

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この映画では、イタリア協奏曲の代わりにゴルドベルグが流れ、ベートーヴェン、ハイドン、
モーツァルトの断片も挟まれる。
グールド若き日の恋人、フランシス・バロー(バチェン)さんがインタビューに答えている
現在の姿がさり気なく出てきた。
若い頃ヘビー・スモーカーだったらしいが、やはりその手には煙草が・・・。
幼い頃より大変苦労し、グールドの元を去る決意をしたのも経済的な理由が
大きかったという7才年上のこの女性は、現在気の毒にパーキンス病を患っているが、
その青い瞳は夢見るように美しかった。

「シークレット・ライフ」を読むまで、グールドがハープシコードのような音色を
気に入っていたというあの有名なアップライトピアノ、チッカリングは、
元フランシスさんのものとは知らなかった。
今回の映画でも、バッハのパルティータNo.2を練習する場面が出てくる。

興味深いのは、G.G.がトロント音楽院の師ゲレーロに習ったという
「フィンガー・タッピング」の練習法を、同じ弟子だった女性が実演して見せるところ。
グールドは後年ゲレーロと決別してから、その影響を否定しているが、
そして、無論この練習法だけで誰もがグールドになれた訳ではないが、
グールドのこの上もなく繊細な感性の表現の発露に、少なからず役に立ったと想像できる。


  - 2 につづく -






Posted by Ru Na - 2011.09.29,Thu
あのウラジミール・アシュケナージが、息子のヴォフカさんと共演するピアノデュオの
リサイタルを聴きに、県立音楽堂に母と出かけた。

resize3185.jpg このリサイタルの情報を新聞で見て、
 展覧会の前だったら忙しくて無理だけれど、
 始まってからなら何とか行けそうと、
 売り切れたら大変と思い、早々にチケットを
 買いに走ったのだけれど、
 行ってみると結構空席がある。
 指揮者としてN響の音楽監督を長く務め、
 TVでも度々そのコンサートを放映していたから、
 金沢の音楽ファンにはそう珍しくないのかしら。
 としても、せっかくアシュケナージの生のピアノが
 リーズナブルな値段で聴かれるいい機会なのに。
 あのペーター・シュライヤーが「冬の旅」を歌った
 時も、あの奇才ギドン・クレーメルが最初に金沢に
 来た時でも、他の都市ならチケット発売当日に
 売り切れてしまいそうなコンサートに空席が
 あったのだった。
 



昔からクラシック音楽ファンが結構多いはずの金沢の七不思議の一つ。
ともあれ、わくわくしながら3階のバルコン席に着く。

プログラムは、  プーランク     2台ピアノのためのソナタ
           ラフマニノフ    組曲第1番「幻想的絵画」
休憩を挟んで、  ムソルグスキー  禿山の一夜 (V.アシュケナージ編)
           ラヴェル      マ・メール・ロワ
                      ラ・ヴァルス

我々の席は舞台を左上から見下ろせる位置で、ヴォフカさんの手元がよく見えた。
しまった、向かい側のバルコン席を買っていたらウラジミールさんの手がよく見えたのに。
実は息子さんもピアニストだとは知らなかったので、デュオとなると実力の差がみえたり
息子さんを全面に出して、この上もなく美しい音色と評判のウラジミール・アシュケナージの
音色があまり聞こえないのではと、ちょっと心配していたのだが、
二人が2台のピアノに向かい合わせに座ると、とたんに息の合った力強い音が立ちのぼった。
ヴォフカさんの手を見ていないと、どちらがどの音を奏でているのか分からないくらい。


ウラジミール・アシュケナージは旧ソ連生まれ。ソ連政府の国の威信の重圧を背負って
出場した1955年のショパン・コンクールでは2位に終わり、
その時審査員をしていたミケランジェリがこの結果に怒って審査員を降りている。
60年代にソ連を離れ、70年代には指揮者としてもヨーロッパで活躍。

ブーニンがショパン・コンクールで優勝した年、日本では突然クラシック・ミーハー現象が起き、
その頃のとある音楽雑誌のアンケートでは、ピアノ部門の人気No.1が
アシュケナージだったと記憶している。
特にベートーヴェンが人気。広いレパートリーとバランスのとれた演奏で安心できるけれど、
あのデーモッシュな70年代のリヒテルのベートーヴェンが好きな私には、少し物足りなかった。
しかしある時、自分の理想のモーツァルト・ピアノコンチェルトを弾いているピアニストを求めて、
CD屋でいろいろ試聴させてもらっていたら、アシュケナージが浮上してきたのだった。
それ以来、TVでモーツァルトの弾き振りのなんとも贅沢なコンサートや、
深い痛みを共有するショスタコーヴィチの交響曲の演奏など、しばしば堪能してきた。
ショスタコのピアノ曲、「24のプレリュードとフーガ」は、アシュケナージのものが
最高だと思っている。



プーランクは、プーランクにしては少し重々しい印象だったが、
次のラフマニノフで、メリハリと繊細な情感にもうノック・アウト。
ムソルグスキーにも、すっかり引き込まれた。
そして、ラヴェルの「ラ・メール・ロワ」の表情豊かなこと。
「ラ・ヴァルス」は、2台ピアノで聴くのは初めてだったが、
(いつも聴いているのは、グレン・グールドがホロヴィッツをおちょくって作ったアルバムのもの。)
この曲を10代の頃初めて、ラジオから流れるオーケストラ版で聴いて、
まるでターナーの霧と蒸気に包まれた絵画のような、何とも不可思議な曲、
こんな音楽がこの世に存在するのか、と驚いた時の気持ちを思い出させるような、
雲の中で上昇したり下降したり、その雲の合間に見える館の舞踏会が、
追憶の内の遠い情景のようにくるくる旋回する浮遊感が、2台のピアノで醸し出された。
アンコールは私の知らないシューマンの甘いメロディー。

resize3182.jpg コンサートが終わって、会場でCDを買った人限定の
 サイン会があった。
 早速列についたが、サイン会にこんな長蛇の列が
 できるのを初めて見た。
 聴きに来た人の3分の1くらいが
 感激のあまり思わずCDを買ったのかしら。





resize3183.jpg


こんな力の入った
コンサートの後すぐに、
こんな大勢の人に
サインするのは
とても大変でしょうに
お二人とも始終
ニコニコされていた。











resize3184.jpg

私のお宝になったCD。右がウラジミール、左がヴォフカ・アシュケナージのサイン。






Posted by Ru Na - 2011.04.30,Sat
resize2555.jpg

今年もラ・フォル・ジュルネ金沢が始まった。
フランスのナント市で生まれたこの音楽祭が金沢でも開催されるようになって4回目。
今年のテーマは「ウィーンのシューベルト」。

resize2556.jpg

短いコンサートを手軽な入場料で、1日にいくつでもハシゴして聴いてね、
という趣旨の音楽祭だけれど、人気の演目は早くからチケットが売り切れ。
1年目は行きたいコンサートの当日券が手に入らず、あきらめた。
おととしはいち早くチケットを買って、モーツァルトとC.P.E.バッハの
お目当てのコンサートを聴くことができた。
せっかくのGW中なので、お出かけしたい日程との調整が難しく、
去年は新潟のフォル・ジュルネで、J.S.バッハとショパンの組み合わせの
コンサートを一つ聴いた。

今年は、福島原発事故のせいで、来日しないアーティストが増えて、
東京のフォル・ジュルネは中止になり、金沢や新潟でもプログラムが大幅変更。
行きたいコンサートがないわけではないが、日程調整がつかず、
今年の本公演はあきらめていたが、
プレイヴェントに急きょ決まった、震災復興支援チャリティーコンサートの券をもらってしまい、
今日夕方のプログラムを、母と聴きに行った。

地元音楽家によるオール・シューベルトの演目。
高校生によるピアノソナタ№19の第一楽章のみの演奏もなかなか良かったが、
最後に、朝倉あづささんというソプラノ歌手による、「野ばら」「糸を紡ぐグレートヒェン」には
いたく感動した。
他の演奏家もそこそこのレベルだと思ったけれど、この人の歌唱は一段上のよう。
すばらしい声に表現力。独語の歌詞が生きた言葉として胸に迫る。
「ファスト」のグレートヒェンは、オフェーリア同様愛する人に裏切られて狂乱する。
その不安が糸車の回転と共に増してゆく狂気の物語が、短い歌曲の中に
ありありと浮かんでくるようだった。
こんなすばらしい歌手がいるとは知らなかった。

プレイヴェントの期間で、まだCDや食べ物の屋台もなかったし、
楽器触り放題のコーナーもなかったけれど、ごちそうさまの一日になった。

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