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見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたこと。
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Posted by Ru Na - 2018.06.30,Sat
いつの間にか、番狂わせが多かった(ように思う)サッカーのW 杯。
予選リーグが終わり、よもやと思った日本は、
なんとか決勝トーナメントに進める事と相成った。

私には、日本だから応援する、といった様な感覚はあまりないのだが、
何となく嬉しいのも事実。
現政権はいつもの手法で、どさくさに紛れて、問題多い法案を
さっさと通してしまったが・・・。

遅れて来たサギたちの子育てが、佳境に入っているので、
サギコロニー通いで忙しく、他に何も手が付かない。
部屋の片付けは一体何時になったら目途がつくのか・・・。

棚の内容の分類整理だけではなく、増え続けるPCの外付けHDDの
内容も、同時に整理しているのだが、
撮影に出てると、PCに取り込まねばならないカメラや動画のデーターが、
毎日約20Gづつ増えていくので、
HDDの当座の空きを作るため、データーBD-Rもせっせと焼く。
でなければ追いつかないのである。

自転車操業とは、まさしくこういう事。






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Posted by Ru Na - 2018.05.28,Mon
仕事がしやすくなるよう、少し部屋を整理しようと、
この冬、本棚を追加した。
個展のはがき用の作品写真を撮るため、ある程度広い壁面を
確保しておく必要があって、部屋の壁の2面は棚を置かない
ようにしていたのだが、床に平積みの本やCDの山、散乱する
書類やいろんな道具。
もっときちんと収納システムができていないと、肝心の制作も
やりづらくなる一方。

で、壁面180cm×180cm分の棚を入れて、CDや本や、カメラ用品、
パソコン関連のものなど、少しづつ整理しては収めていっている
のだが、一向に片付かないどころか、ひとつ山を崩すと、かえって
収拾が付かなくなったり、一体何時になったら埒が明くのか、
快適に仕事できる環境に出来るのか、見当が付かなくなってしまった。

もう要らない、と思われるものをある程度は捨てているのだが、
基本的には物を溜め込む習性があるので、ミニマリストには
なれそうもない。









Posted by Ru Na - 2018.04.30,Mon
「松雪草」は、チャイコフスキーのあの魅惑的なピアノ小品集
「四季」の中の四月の曲。
「四季」の12曲はどれも好きだが、これは特に私のお気に入り。
季節おかまいなしに年から年中この曲を弾いているが、
それでも、ふと気付くと早や五月の風。

沖縄の普天間基地問題、シリア情勢、ロヒンギャ難民、
#Me Too の広がり ・・・でも日本では・・・
南北首脳会談の今後・・・?
気になる色んな世界情勢や社会問題が、次々吹き付ける風のよう
だが、寒暖差に翻弄されている我がささやかな日常では、
サギの戻りが遅くてやきもきしている間に、庭にすみれやつつじの花。
行きつ戻りつしていた季節が、今は一斉に新緑に被われ始めている。

連休前半、早速、水と緑と黄色い小花と白い鳥たちと、たっぷり
すてきな時を過ごすことができた。






Posted by Ru Na - 2017.08.17,Thu
TV番組、イギリス鉄道の旅は、エジンバラの後インバネスへ。
私はスコットランドはエジンバラまでで、その北には行ったことがない。
しかしTV画面で、途中のハイランドの野の風景を見た時、
胸がざわついた。
ヨークシャー・ムーア(荒野)より、更に繊細で淡い色彩ながら、
強い風で焼けた草地の野性。
行ったことがないのに、懐かしい想いがする。

昔、ヨークシャーの叔母の家に遊びに行くと、
北イングランドを中心とした観光パンフレットを、叔母はよく私のために、
集めて取っておいてくれていた。
イギリスのいろんなパンフレット(雑誌も)の紙質は独特で、
その手触りや匂いや印刷の発色に、子供の頃から馴染んできた。
観光パンフレットは主に、田園風景の中の城など歴史遺産や、
トレッキングコースを紹介する写真が沢山載っていて、
それを眺めているだけで、英国の田舎を満喫できるような気さえして
きたのである。

私がこの世で最も好きな場所のひとつであるヨークシャー・ムーアの
(再び訪れることができるかどうか分からないが。)ハワース郊外、
あの小説の舞台になった“嵐が丘”の、湿気を含んだ寒風にさらされ、
羊のシルエットが、ヘンリ・ムーアの彫刻のように灰色の空を背景に
そびえるような丘の草のにおいと、パンフレットの中の北イングランドや
スコットランドの草地の写真から想起された広がりが、そのまま
イメージの中のハイランドに繋がっているのかもしれない。






Posted by Ru Na - 2017.08.15,Tue
暑さは一応ピークを超えたのだろうか?まだ油断はできないけれど。

何かと気ぜわしく、予定がびしっり詰まった毎日。
そんな中で、何気なく鉄道の再放送番組をTVで観た。
NHK-BSのイギリス鉄道の旅である。

ふっと見ると、なつかしいマンチェスター、リバプール。
に続いて、ウィンダミア。北イングランドの湖沼地帯である。
ここには、リーズから地元の観光バスに乗って日帰りした。
バスに乗っていたのは、地元の年配の方がほとんどで、
外国人は私と、オーストラリアから来た女の子二人組のみだった。

道中の野や小川や滝などの自然風景、耕作地の緑も美しかったが、
湖に着いて、私は皆が行くのとは逆方向に行きたくなったので、
湖畔の森の散策時間が無くなってしまった。
で、いつまでもウィンダミアの一番美しい風景を見逃した、と
心残りを引きずっている。
番組のの中で旅をしている関口知宏さんは、車まで借りて
この湖沼地帯の美しい森の中へ。
本当は私もこんな場所に行きたかったのである。

番組はウィンダミアからスコットランドのエジンバラへ。
エジンバラを訪ねたのは、仏留学時代のごく早い時期で、
一度きりなのだが、特に印象深く、また思い入れもある
町のひとつである。
TV の映像を見ても、この町の空気や街角のにおいを思い出す。

だいたいイギリスは独特のにおいがある。
無論それぞれの国、それぞれの町には独自のにおいがあって、
風景を思い出す時、一緒に想起されることが多い。
においが時の中の風景を呼び起こすのか、
風景が香りを呼び込むのか、そのどちらもありうるだろう。

私が特にイギリスの風景をにおいと共に思い出すのは何故だろう。
ロンドンのヴィクトリア駅にしても、その名を聞いただけで
駅周辺の雰囲気、構内の様子をにおいと共に思い出し、
決して平面的なイメージで終わるということがないのである。








Posted by Ru Na - 2017.06.30,Fri
6月は水の無い月。
長く雨らしい雨は降らなかった。ここに来て梅雨らしくなった。
何かと気ぜわしく、ずい分いろんな事があったように思えるのに、
やはりサギコロニー観察が生活のかなりの時間を占めて、この月も過ぎる。

メモ―
    そこに所属しているという意識から、
    そこを自分が所有しているという意識に変わったとき、
    共同性は排他性に変質する。

部屋の整理をしていて、小さな新聞の切抜きが出てきた。
朝日新聞の、「折々のことば」である。

共謀罪が強行採決された。暗雲を感じてしまう。

こんな言い訳、通用するはずもないのに、説明にならない説明で、
本来もっと追求されるべき事がごまかされ、世間は“忖度”が蔓延し、
なるべく当たり障りのないことを話し、当たり障りのないように
生活していく。

自分達がある社会なり組織なりを所有しているかの如き幻想を抱けば、
(たいていの場合、幻想にすぎないのだが)
傲慢で目が曇っていることにも気付かなくなり、
違う意見を受け入れる心の余裕も無くなり、
“仲間”ではないものへの排除にひた走るようになる。
国家のレベルから、市井の小さなサークルに至るまで、
何かそんな空気がこの世界を覆っているような気がする。

ものごとを違う角度から見て、批判したりパロディー化したりする事が
そんなに“窮屈な考え”のように見えますか?
いろんな社会問題を、自分の問題として考え、真面目に語る事が、
そんなに“今ここで話してもしようがない事”ですか?

もう何年も前から、留学生が日本人学生と色々真剣に討論しようとしても、
すぐはぐらかされてしまう、と嘆いていると聞かされてきた。
一体何時からこのような雰囲気になったのか。
梅雨時のうっとおしさより、世間を覆う不快指数が気になる。





Posted by Ru Na - 2016.12.31,Sat


今年も後30分足らず。
ヒトが勝手に作った暦だけれど、年の切り替わりは、やはり何か特別。

2016年の世界を象徴するような言葉が二つある。

 同調圧力

国政から市民の小団体にいたるまで、
意見を同じにするのが美徳という雰囲気があって、
異なる意見を力ずくでも排除しようとする動きが強まった年。
何だかじわじわと、ファシスト的な圧力さえ感じる。

 正常性バイアス

異状なことが起こりそうな時、そこまで酷くはならないだろう、
ならないはずだ、と、人の理性に希望を託しすぎて
現実を十分把握していなかったと、後から気づく。
トランプ・ショックのような。

 

ベルリンでのテロの衝撃から、まだ立ち直れない。
来る年は、このような憎しみの連鎖が少しでも緩和されますように。

 









Posted by Ru Na - 2016.10.30,Sun
ポーランドの映画監督、巨匠アンジェイ・ワイダの訃報。
「灰とダイヤモンド」は、見ないで済ませられる映画ではない。
以前は時々ワイダ監督作品をTVで放映していたが、近年は全くなし。
社会派のずっしり重いテーマ、抽象的で時には難解な印象も与える
映画は、敬遠されがちなのだろうか?

新潟県知事選、原発再稼動に慎重派が当選し、ひとまずホッ。

登山家、田部井淳子さんが亡くなった。
女性で始めてエベレスト登頂の偉業を成し遂げたすごい人だが、
その気さくで飾り気のなさで、私はとても尊敬していた。
真に一流の人は、虚飾も偉ぶるところが微塵もない。
Tvで語る田部井さんを通じて、まだ訪ねた事はない福島県の三春町の
美しさにイメージを膨らませていたのだが、それだけにいっそう
あの忌まわしい原発事故はショックだった。
福島の子供たちと一緒に富士山に登るプロジェクトで、
この夏その登山の様子を、たまたまTVで見た時は、もうずい分
お辛そうだったので、心を痛めていた。

訃報続きだが、中西夏之さんも亡くなって、
これでハイレッドセンターのメンバーが全て鬼籍に入った。

ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞。

アメリカ大統領選の泥沼試合。

自分の身の回りとしては、
鎮守の森ギャラリーの作品制作と同時に、渡って行って次第に数が少なく
なってゆくコロニーのサギの様子見やカウントにも通いづめ、
とにかくいつも時間と体力をぎりぎりに使う日々が過ぎた。
庭の作場の一つを解体し、隣の庭の大木も切られてしまったので、
住宅密集地にぽっかりと空が開いてしまったが、鳥たちにはかえって
なかなかの評判なのか、エナガの群などがやって来た。

そしてこの子たちも川に無事戻って来た。

 

       

もうすっかり互いに顔馴染みになったせいか、(昨冬は一時期、毎日のように
会っていたので。鳥は個体識別能力がとても高いらしい。)
私が割りと近くにいても、くつろいだ姿を見せてくれる。
どうかあまりカメラマンに追い回されませんように。









Posted by Ru Na - 2016.08.31,Wed
こちらでは、変な動きをする台風10号の重大な影響はほとんどなく、
8月も早や過ぎ行こうとしている。
(この台風による被災地、またイタリア中部の地震被災地の方々に
お見舞い申し上げます。)
まとまった強い雨が断続的に降り、気温が急に下がったが、
強風も無く、今日は昨日より8℃高い真夏に逆戻り。
日差しはぎらぎらと、夕方サギコロニーに出かける時間帯もまだ
33℃近くあった。
流石に夜は涼しさが戻り、巣立って飛び回るサギのヒナたちの姿にも
季節が感じられる。

多忙すぎる日々に、「冬になったらとりかかろう。」という事ばかり
どんどん溜まっていくが、それでも新聞はなるべくじっくり読む、
というのが日課。
家では3紙購読しているが、どうしても目を通したいのは1紙半。
いくつかの記事や評論やエッセイが、いろいろ考える材料になっている
ものの、反芻しないと数日後には忘れてしまう。
その時々に心惹かれた文の内容を、時々書き留めておくのもいいかもしれない。

楽しみにしているのは、朝日新聞1面の隅に載っている「折々のことば」。
著名人のことばも市井の人が何気なく言ったことばも、分け隔てなく
哲学者の鷲田清一さんは取り上げ、短いうがった解説を付けている。
全ての解釈に共感しているわけではないが、時々とてもすとんとくる。

もうずい分前だが、
「聞いていない。」-無能な上司
その翌日、
「もう決まった事だから。」-同上

と、2日連続。別に会社でなくとも、日常にありがちな事。
信頼していた人が、大切な場面でこういう事を言ったことがあった。
今思えば、その人を過大評価していたようだ。

最近印象深かったのは、
「人間が抱く嫉妬の中で最も暗くて陰湿なのは、対象となる人間の
正しさや立派さに対してなの。」-宮本輝の小説より

皆それぞれ独立した個であり、違うのが当たり前と、人間を捉えていれば、
嫉妬心など起こり様がないはずだが、右へならえが好きで、
他人を自分と同じ地平に引き摺り下ろして考えがちな日本人気質は、
嫉妬深い国民性と言われても仕方が無い。
(以前スペイン人の女の子に日本人ってとても嫉妬深いみたいね、
と言われた事がある。)
それが更に進むと・・・・。納得。

「“自由の獲得”は劇的な政治変化を伴うのに対し、“自由の喪失”は
音もなく徐々に、ほとんど人の気づかぬうちに進行することが多い。」
               -猪木武徳 経済学者

現在起こっている事。






Posted by Ru Na - 2016.05.29,Sun
もう1本の記事は、上野千鶴子氏による、関東の小さな市における
公民館と図書館の改修計画に関するもの。

市が提示した計画案に対し、市民側からこんな市民センターがほしいと
対案を出した話で、そこに至るまでの市民グループの活動に
氏が少し関わって、この小さな自治体の市民による民主主義の実践のほどを
実感したと書いている。
市民が立ち上げた100人を超えるワーキンググループで、1年かけて
議論を重ねてきたきたという。

色んな立場の異見をまとめる役の人が音をあげかけた時、
上野氏が言ったのは、「民主主義はノイズの発生装置。ノイズを楽しんで
ください。」

氏は続けて、―民主主義はテマヒマのかかる意思決定のツールだが、
権力者は民主主義がキライ。地方自治体から中央政府に至るまで、
「オレ様に任せろ。」で、ノイズの発生がキライだからだ。―

ここで言う「ノイズ」は、様々な意見や考え方のことだろう。
民主主義が根付いていない体制の国家は、その「ノイズ」を、
排しあるいは弾圧し、権力に都合のいいひとつの方向しか認めない。

多数決が少数意見を呑み込んでしまうという欠点もあるが、
民主的というのは様々な意見を自由に言い合える、というのが基本だと思う。
日本は果たして民主主義が根付いているかというと、
政府や企業から市民の小さな集まりまで、はなはだ心もとない。
特に最近は、役所が好きな予定調和を重んじて、
自粛してしまうか、違った見方をするものをひどく攻撃するかで、
市民側があるいはマスコミが、自ら「ノイズ」を排除しようとする、
重苦しい空気が社会に蔓延しているように感じる。
自ら民主主義に背を向けている、と言い換えてもいい。

また皆が一斉に同じ方を向く、というのも気持ちが悪い。
例えそれが正しいと思われる方向でも、意見が皆同じ、というのは
やはりどこか変である。・・・・
というようなことを、鶴見俊輔氏も書いていて、同感する。
「私は正しい。」と言う人を自分は信用しない。と。

SEARDsの活動に、どこか明るい希望を感じてしまうのは、
学生運動として、一つのまとまった団体ではなく個々の集まり、と
言い切っているところである。

ある目的に対して人が集まり組織が出来ると、組織の意向に
みな従わなければならないと、個々人の意見や活動を
組織のために抑え込んでしまいがちになる。
その方が効率や都合が良い訳だが、その時点でテマヒマかける
民主的なプロセスを放棄することになり、
民主主義の「ノイズ」を排した全体主義的な国家体制と
大差なくなってしまう。

其々の意見や生き方を抑え込むことなく、ゆるやかなネットワークで
つながる、という活動の仕方に、「長いものには巻かれろ。」
「出る杭は打て。」式の息苦しい日本社会をいくらか蘇生させる
一陣の涼風を感じる。








Posted by Ru Na - 2016.05.25,Wed
わりと最近読んだ新聞記事で、印象に残った2本。

ひとつは考古学者による文化論的エッセイで、
若い頃は理路整然としたものが好きで、音楽でも構成が
しっかりはっきりしたベートーヴェンやブラームスが好みの
中心で、マーラーなんか聴くものか、と思っていたが、
年とともに割り切れないものも受け付けられるようになった。
それにつれ、考古学でも事実をきちんと分類整理するだけでなく、
曖昧な事柄も色々想像を楽しめるようになり、世界が広がった感じ。
というもの。

なるほど納得、と思いながら読んだ。
私も若い頃、マーラーやブルックナーが受け入れられなかったのは、
ブラームスはともかく、ベートーヴェンのように音楽の構造が
はっきりしなくて掴みどころがない、というのが理由だった。
聴いていて、どのように曲想が進んで帰結するのか見当が付かず、
その捉えづらさに始めは入りにくかった。と吉田秀和さんも書いている。

以前このブログにシューベルトのピアノソナタに対する
素人のアナリゼを載せた時、
             「シューベルトは癖になる」

次は「ブルックナーも癖になる。」を書こうと思っていたくらい、
今やすっかりブルックナーも自分にとって大きな存在である。

作曲家が生きた時代が違うにも関わらず、
ブルックナーとマーラーは、よくひとまとめにされる。
掴みどころがない茫洋さが共通しているせいか。
マーラーは、どこか民族音楽のような何か独特な味があって、
ファンが多いように思うが、ブルックナーは更に亡羊としている。

しかしブルックナーは多くの音楽好きにとって、やはり気になる存在らしく、
例えば古楽について雑談していても、いつのまにか
ブルックナーは何番が好き?誰の指揮によるものがいいと思う?・・
等々、いつの間にかその名が出てくることが多い。
やはりギュンター・ヴァントが振ったものが凄いね。
特に晩年の90年代の録音が・・・。など、
みな指揮者とその録音年代までついこだわってしまうのも、
ブルックナーならではかもしれない。

割り切れないが大きな流れに身を委ねるような音のかたまりに
包まれる感じに抵抗がなくなるのは、
年齢と共に世界を丸のまま捉える感覚が育つからかもしれない。

Posted by Ru Na - 2016.03.11,Fri
東日本大震災から5年が経った。
TVでは一日中被災地の今を映し続けていた。
当事者以外には、徐々に風化している観のある記憶を、
何とか留めねばならない。
福島の原発事故後はあんなに原発や放射能に騒いでいたのに、
何か別の問題に関心が移ったら、ほとんどその事を口にしなくなった人もいる。
問題解決には程遠く、放射能は生物の寿命をはるかに超えて存在し続けるのに・・。
忘れないしつこさ、粘り強さが必要である。
原発事故は全然収束していないのに、あれは終わった事という態度で、
なし崩し的に原発再稼動を進める政府や経済産業界の姿勢に、
高浜第3原発運転差し止めの判決は、よくぞ警告を鳴らしてくれた。

日本には昔から「水に流す」といって、何でも早く忘れようとする
気風が確かにある。
「不易と流行」の、「流行」ばかりを重視し、
「変わっていくこと」「新しいこと」への絶対的な信仰があるみたいだ。
テクノロジーの進化で、確かに生活様式や時空に対する感覚は
変化してきている。
しかし、生物としての人の性質や、歴史的地理的に培われた気質は
そう急激に変わるものではない。
何かというと、「それは何時のこと?」「もう古いよ。」と言うのは、
そこでもう思考を放棄しているように、私には思われる。
現代アートも、「新しくなければ」と言う呪縛に、長年囚われてきた
一面がある。

反面、出来上がった秩序に安住しすぎている日本社会も、また問題である。










Posted by Ru Na - 2016.02.27,Sat
時折、この世は“胡蝶の夢”か?と思ってしまう感覚は、
多分少なからぬ人が持っているものだろう。
現在自分が居る世界が本当に夢ならいい。そうすれば、
パルミラ遺跡は破壊されていず、こんなに多くの人が難民として
彷徨を余儀なくされることもなく、地元生物や住民を蹂躙するような
辺野古埋め立ての強行もなく、私のマザーリバーが工事で様変わりしてゆく
のを目の当たりにしなければならぬこともなく、
蝶が目覚めれば、全てがもう少しましな世界になっているかもしれない。

加賀藩お抱え学者だった祖先の墓の横に、お弟子さんたちが建ててくれた
石碑があって、四面びっしり漢字で覆われている。
漢文のうえ、石の劣化で文字が読みづらくなっている箇所もあって、
よく分からないのだが、お墓参りに行く度に眺めては、
少し意味が汲み取れると嬉しくなる。
その中に漢詩のような文があり、私のお気に入りは、
「百年酔夢」という一節。
その文字を幾度も眺め、静かな墓所で木々のざわめきを聴いていると、
江戸時代に生きた先祖が、やはりその時代なりの無常観で、世界や自分もを
俯瞰していたのかと、急にとても身近に感じられる瞬間がある。

秋の終り頃から、時々萩尾望都作品を読み返している。
少女漫画にかって無かった発想のストーリーと、深い心理描写や文学性を導入し、
漫画の範疇を超え、演劇や文学など、色んなジャンルの文化に影響を与えてきた。
その中で、改めて特に面白いと思ったのは、パラレルワールドを扱った作品。

パラレルワールドとは、SFによく出てくる、この世界と並行して存在する
並行世界、並行宇宙、並行時空、異世界。
手塚治虫がよく扱ったテーマで、世界を別の視点から眺めるその想像力には、
私も子供の頃からずい分刺激を受けてきた。

   

もしも関が原で西軍が勝利していたら、日本の首都は東京ではなかったかも
しれず、私も別の町に生まれていたかもしれない。(祖先は西軍。)
もしもあの日、出かけるのが5分遅かったら、交通事故に遭っていなかったかも
しれない・・・。
その「もしも」の世界が、実際に存在し、自分が居る現実空間に重なっているのが
並行世界である。

    

「もしも」の世界は、想像上の物語として、文学や映画によく描かれる。
「ナルニア国物語」では、子供たちが入り込んだ古いタンスの奥に異世界が広がる。
「ネヴァーエンディングストーリー」では、古い書物の中の世界が、
本を読む少年の現実世界と干渉し合う。
現実の街に少しだけ現実とずれた別の時空間が重なっていて、ふとしたはずみに
二つの世界を行き来する破目になる物語は、レイ・ブラッドベリがよく書いている。
映画でも、タイムトラベルや過去と現在が重なってしまうもの、
時間と夢が入れ子状態になるものなど、枚挙にいとまがない。
 
   

パラレルワールドは完全に空想の産物なのかというと、
宇宙には反物質というものもあったりするので、
量子力学の世界では、「複数の干渉し合う世界」が存在しえる、
という仮説もあるらしい。
人は人の知覚で捉えられるもののみ現実として、知覚外の世界は
空想だと決め付けがちだが、想像力の中に多次元世界を垣間見るための
重要なキーが、もしかしたら転がっているかもしれない。

   

萩尾望都作品に話を戻そう。
「ポーの一族」で、時空を超えて生き続ける少年たちと
各時代に偶然関わった人のつながりが、物語を追うごとに
次第に明らかになる、という壮大で複雑な構想を描き切った力量は、
後の作品で更に留まることなく発展してゆく。まさしく天才。

誰かの見る夢が現実とシンクロする代表的なものは、「モザイクラセン」や
SF大賞を受けた「バルバラ異界」。
「11人いる!」に始まり、宇宙空間にまで広がる世界観は、
「A-A’」「銀の三角」で更に複雑に発展する。

「マージナル」は、色んな要素を含んだ完成度の高い作品である。
核か環境汚染でヒトに子供が生まれなくなった未来の地球。
男ばかりになった世界で、“マザ”と呼ばれる唯一の疑似女性に、
各地方の町や村が“センター”で人工的に誕生した子供を貰う。
地上で暮らす人間は、この世界のシステムの全体像が見えない。
見えないが、何かおかしいぞと感じる者たちが、物語を進展させていく。

興味深いのは、これまで萩尾作品に度々出てきた、人間の性別の問題。
萩尾作品には、性転換する種が登場し、物語の核になっている。
生物界には性が未分化だったり性転換するものがいる。
高等生物には現在のところ見られないが、環境ホルモンが生物の♂♀の
バランスを崩すということが、実際に起きている。
将来人間にもそれが起こらないとは、誰が予測できようか。





Posted by Ru Na - 2016.02.14,Sun
宇宙空間における時間や光の歪み、ブラックホールなどについて
つらつら考えていたら、
折しも米研究チームが重力波の観測に成功したという、ビッグ・ニュース!
アインシュタインが一般相対性理論と共に予想していたもの存在が、
ちょうど100年目に実証された訳である。

重力波にしてもニュートリノにしても、人の可視の範囲を大きく超えた
世界が実際に存在するという予想や、無限に広がる想像の一端を、
実際に実在するものと肯定する出来事に、わくわくと胸おどる。

しかし地上では、可視や知覚の範囲で日常の時間が流れていく。
その日常に思考が交差し、知覚と思考の入り混じる、自分を取り巻く世界を
何とか認識し定義しようと、人間は古来からもがいてきたのではないか。

      

世界の捉え方を、西欧哲学のかっての大きな二つの流れで整理してみる。
一般論-法則から個々の事例を考察していく、アリストテレス以降の演繹法
に対し、経験や観察という個々の事例から法則を見出してゆく帰納法。
これは、16-17世紀の英国人、フランシス・ベーコンが提唱したもので、
ルネ・デカルトの「コギト・エルゴスム(我思う、ゆえに我あり)」に到達する、
あの感動的な追及に通じるものだと思う。
(余談:学生時代の一般教養の哲学の講義で、さらっと触れただけだが、
このスリリングな思考過程と結論に、私はいたく感銘を受けて、
デカルトの研究書を何冊か読んでみたりもした。
後年、パリのサンジェルマン・デュ・プレ教会でデカルトの墓を見つけ、
詣でた時は、デカルトも実在の人間だったと感無量だった。
ちなみに、この教会の前広場には、サルトルやボーヴォワール等
実存主義者のたまり場だったカフェがある。)

フランシス・ベーコンの「イドラ」の観念が面白く、日常生活の中で
当てはまる事など、ついつい考えてしまう。
経験論哲学の祖ベーコンは、経験の重要性を説きながら、一方では
正しい認識の妨げになるもの-誤解や先入観、偏見などを「イドラ」
(元々の意味は偶像)とし、それに注意する重要性を説き、
イドラに陥るその要因を、4つに分かりやすく分けている。

1.種族のイドラ 人間という種が陥りやすいイドラ。

2.洞窟のイドラ 各個人が持つ偏見。

3.市場のイドラ 社会生活で、言葉などから生ずる偏見。

4.劇場のイドラ 学説、権威などを無批判に受け入れることで生ずるイドラ。

1.は、魚は人に聞こえない周波数でコミュニケーションを取っているのに、
その声が聞こえないから魚は話さない、と思い込んでいるようなもの?
人が他の生き物より優れている、と信じ込んでいる者があまりにも多い。

3.は、曖昧なあるいは不適切な言葉が誤解を生む、といったようなもの?
噂や人の悪口をそのまま信じ込むのも、これに相当するだろう。
ネット時代のソーシャル・メディアの広がりで、その傾向に拍車がかかり、
このイドラはますます人の思考を曇らせているように思える。
また、故意に使われる言葉や(例:敗戦→終戦)、勇ましいキャッチフレーズなどが、
物事の実態をぼかしてしまい、思考停止を招いている、現在の日本社会のような・・。

4.は、権威をむやみやたらに信奉し、エライ先生の言う事だから正しい、と
これまた、肩書きや社会的地位への盲信も加わって、自分の頭で考えるのを
放棄していながら気付かない、といった場面があまりにも多すぎる。
新聞やテレビの報道をそのまま鵜呑みにする、というのも、
マスメディアを権威と捉え、それに対する信仰があるから?

2.は、1.3.4.のイドラに影響されている個々人の視野。
この洞窟のイドラは、イメージを伴っていつも私の頭の片隅のどこかにある。
人は深い洞窟の奥に座して、洞窟の狭い入り口から見える世界しか知らない。
もし洞窟から出られれば、外に広がる無限の世界に触れられるのだが。
たとえそこから出ることが人間には不可能としても、自分の座っている位置を
少し変えるだけで、違うものが見えてくるはずである。
にもかかわらず、現在の自分の位置から動く(見方、価値観を変えてみる)のが
なかなか出来ないのは、それを思いつけないのか、
あるいは別の世界を何となく感じていても、方向転換する困難さに、
躊躇してしまうのか。
そして人は、自分の性向や価値観からなかなか逃れられないでいる。

      
洞窟のイドラのイメージは、何故かいつも私にシャルロットの乙女を想起させる。
テニスンが「鏡は横にひび割れて」と詩に書き、ラファエル前派の画家ハントが
絵に描き、それを見た夏目漱石が「薤露行」という短編にした、
「アーサー王伝説」の中の、ひとつの悲恋物語である。

      

シャルロットの姫エレインは、アーサー王宮廷の第一の騎士ランスロットに恋し、
恋やみにやつれて、想い人のいる城へと流れる川を小舟で下りながら息絶える。

  このおとめ みまかりぬ みまかりぬ 恋やみに

テニスンの詩では、姫は来る日も来る日も高い塔の小部屋で錦の糸の綾布を織っている。
部屋の鏡には一つきりの小さな窓から見える景色が写し出されるのみ。
姫にはこの部屋と鏡に写る世界が全て。今だ心を捧げる者も持たず、
何人もまだ乙女に誓いを立ててはいない。
その明鏡に、カメロットの宮廷へ帰ろうと急ぎ駒を進めるランスロットの姿が
偶然写った時、姫は思わず織物を投げ打って窓に駆け寄ろうとした。
その刹那、とりどりの糸は張り詰め切れ八散し、鏡は真中より割れた。
絡む錦の糸の中で立ち尽くす乙女が「我が命運はここに尽きたり!」と
叫ぶ瞬間を、ハントの絵は描いている。

閉じた小さな世界から外に出ようとした衝撃は、いかばかりだったか。
整然と織り成されていたた日常は、引きちぎられ宙に飛散する千々の糸となって、
乙女の運命を絡め取ってしまった。
そしてそれは、やがて来るアーサー王宮廷の崩壊を招く諍いに
繋がっていった。







Posted by Ru Na - 2016.02.08,Mon
近日、X線天文衛星が打ち上げられるという記事を読んだ。
天体は、可視光以外に赤外線や電磁波を出していて、
それらの8割がX線でしか観測できないのだという。
目に見えないそれらを観測することで、星の誕生や死、
銀河団の形成や動きを解明するのに役立つらしい。
ブラックホールが引き起こしている時空のひずみまで、
観測できるのだという。

世界は人の目に見えないもので満ちている。というより、
人の感覚は世界や宇宙空間のほんの一部しか捉えられていない。
人が見ることができるは赤外線から紫外線の間の七色にすぎないが、
金魚や鳥は更に多くの色が見えているらしい。
人にとっては♂♀同色で性別の見分けが付かない鳥も、
かれらには女の子の色や男の子の色、といった其々違う色が見えるらしい。

      

音に関しても、犬は人の耳に届かない高音を聞くし、
象は人に聞こえない低音で、ぺちゃくちゃおしゃべりをしているという。
猫が誰もいない空間を凝視して毛を逆立てるのも、
多分そこに、人の感覚に掬い上げられない何かが在るのだろう。
匂いの発散で、仲間に危機を伝える樹木など、
人の五感の外にある世界を、ようやく“科学”によって、
存在証明でき始めているが、それでも人は依然として、
限られた知覚の中のみで、これが世界の全てであると信じ、
人にとっての“現実世界”から逃れられないでいる。

      

以前読んだ本に、動物が生まれて死ぬまでの間に打つ心臓の鼓動回数は
同じで、寿命の短いネズミは長いゾウより鼓動が速い。
つまり、ネズミにとっての時間は凝縮されている。という話があった。
そうか、寿命が3~4年のメダカの1時間は、人の20数時間に相当するのか、
と思うと、「ちょっと待っててね。」と、メダカたちに待ってもらう時間が
かれらにはかなりの長時間の待ちぼうけだろうと、
メダカを世話しながらいつも申し訳ない気持ちになる。

時間は決して一様に流れている訳ではない。
筒井康隆が初期の小説でよく描いている、人間の時間でも、
人によって状況によって、時間が伸び縮みするという感覚に
共感を覚えたものだ。
しかしこれは、あくまでも想念上の時間。
天体の運動で生じる現象を、人は“数”でうまく刻んで、
地球上では普遍で不変な“時間”を発見(発明?)して、指標として
人間世界の中央に置いた。

私は時計の造型がとても好きである。
ドットが数文字を塗り替えていくデジタルではなく、円盤上に
ゆっくり休みなく2本の針が動いていくアナログ時計が。
この端整で無駄のない形の起源は、おそらく日時計だろうが、
日時計の動く針は太陽の影。地球の軌道がもたらす季節のうつろいを
そのまま映している。
シャルトル大聖堂の、ひっそりとした「日時計の天使」を思い出す。
時や暦は神の領域なのか。

地球上では不変の法則を持つはずの時間が、宇宙空間レベルになると、
それが不変ではなくなるという。
時が淀んだり歪んだり、逆流したりするという宇宙空間は、
想像の域を超えているが、この時空間の歪みを計算に入れなければ
宇宙ロケットは飛ばせないというので、
やはりこれも現実的に人の世界と結びついている。







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