毎年11月の末頃、つれあいと関西方面の小旅行をするのが恒例である。
主に大阪に2泊し、京都や奈良の古寺史跡を訪ね、ビデオの撮影などもしている。
今年は、夏からの体調不良をひきずったまま、秋の野外展の作品制作に向けて
無理しすぎたせいか、私の体調がいつまでもあまり良くないので、
大阪をパスするのが残念だったけれど、もっと近場に車で出かけることにした。
何しろ大阪には、「ワルティ堂島」という大好きなCD屋があって、
クラシック音楽CDの専門店が、もう金沢にはなくなってしまったので、
大阪行きは、年に一度のCDまとめ買いのいい機会。
まあいいか、CDは山ほど持っているし、聴くものは沢山あるし。
ということで、
11月28,29日に初めて敦賀を旅した。
いろいろ候補にあげた中で、敦賀を選んだのは、
今年の“鎮守の森ギャラリー”で、のぼり旗型の作品を作ったその勢いで、
ご先祖様所縁の地を訪ねてみたいと思った所以。
あいにく寒波の襲来で、天気は荒れ模様。降りしきる雨の中をのんびり出発。
県境の山中は紅葉が美しいが、途中雨が霰に変わる。
トンネルをいくつか抜けて、敦賀に入ると
道路は乾いていた。
高速を降りて最初に向かったのは、
町の西端に位置する浄土宗の名刹
西福寺。
福井の紅葉スポットの一つとして
有名であるらしい。
ひなびた風情の総門を入ると、
コンクリート製の大きな三門。
両脇の大きな古いスダジイが印象的。
奥の御影堂の外壁は修復中だった。
左手の阿弥陀堂へ。
目的は国の名勝庭園に指定されている
書院庭園。
縁側のガラス戸の内から庭園を覘いて
驚いた。
まるでイギリスのロックガーデン!
一部がこんなふうの庭は見たことがある気がするが、
全体がこのようになっている庭園は初めて見た。
紅葉はほとんど終わっていたが、敦賀半島の裾野を借景にして、
というより、山の斜面にそのまま融け込んで一体化している。
どこまでも上昇していくような動き-ムーブマン-を感じる。
後で資料をみると、極楽浄土を地上に表現している、とある。
なるほど。
庭に出て歩くと、見事な石組みの
橋がある池には、
丸々とした鯉たちがのんびり
泳いでいる。
とても大切にされているらしく
幸せそうな顔をしていた。
庭の斜面の中ほどに、山から滲みだす
清水を囲った石室があって、
その水が鯉たちを養っているよう。
庭園上方から
寺院の建物郡を望む。
庭をめぐる間に降りだした雨がしだいに激しさを増し、
阿弥陀堂から御影堂に通じる渡り廊下を行くと、屋根から落ちる雨水が
滝のようになった。
しばらく待っても弱まりそうもない。
駐車場にようやく戻って、ここからほど遠からぬ気比の松原へ。
気比の松原に着いた頃には、
雨は小降りになっていた。
日本三大松原の一つ。
わりとこじんまりした印象。
白砂や松林の清浄なたたずまい、
海はこの荒天でも、翡翠の原石のような
淡い色をして、波の形まで美しい。
確かに絵や句になる風景である。
デートスポットらしく、
カラスのカップルが仲睦まじく
たわむれていた。
浜に人が増えてきたら、
たちまちトビの大群がやって来た。
ふと見ると、
「トビに注意、お弁当を盗られます。」
といった看板があった。
風が強くとても寒いこんな状態で、
誰もお弁当なんか広げないから、
トビにはお気の毒さまでした。
天気が悪いと日暮れがことさらに早い。
敦賀城の門の一部を移築した来迎寺に着いた時は、もう辺りは薄暗くなっていた。
早い夕食後、今度は街の東、敦賀港の方へ。
また雨の中、寒さに震えながら、レトロな建物群のライトアップを見た。
赤レンガの倉庫群。
旧敦賀港駅舎。内部は鉄道資料館になっている。
ライトアップの色が刻々と変化する。
人道の港館。
日本のシンドラーと言われる
第二次大戦下の
リトアニア大使杉原千畝が、
ヴィザを発行して命を救った
6千人のユダヤ人が、
ウラジオストックから
日本に上陸したのが
ここ敦賀港らしい。
11月26日、紅葉に染まる玉泉園を訪れた。
石灯篭だらけの西庭から入る。
ここには“隠れキリシタン灯篭”もある。
兼六園に隣接するこの庭園は、
兼六園の原型になったとも言われている。
築庭した脇田直賢は、幼い頃秀吉の朝鮮出兵のせいで孤児になり、可哀そうに思った
宇喜多秀家が日本に連れ帰り、その後
前田利長夫人の玉泉院に育てられて
前田家の家臣となった。
南宋の山水画を型どったという作りの
回遊式庭園で、
斜面を利用した多層構造のこの庭は、
コンパクトながら、隅から隅まで見事な
造作で、見飽きることがない。
本庭の池を横手から見る。
春には水芭蕉の花が咲く池は今、水に映った紅葉、沈んだ落葉で赤く縁取られている。
本庭の大池に水を注ぎ込む滝と赤岩の上、
上段の庭に登ると、そこにも中央に池、
奥には金沢で一番古いという茶室がある。
茶室の傍には故国を偲んで植えたという
丈高い朝鮮五葉松が、ノウゼンカズラの
蔓を巻き付かせ立っている。
この木は兼六園の中からでもよく見える。
黄と赤の錦織。見ている自分まで染まってしまいそうな心地で、本庭の方に降りる。
石の上、苔の上に散り敷くもみじが
まるで黄と紅の絵の具の点描。
本庭正面。石灯籠が深山の峰の見立てのよう。
東庭の地面に自然にできた三色の染め分け。
の公演があった。
音楽堂のエントランスには、
こんなツリーが。
米團治といえば、桂米朝のご子息で元の小米朝。
2年前に襲名したが、今でもつい小米朝と呼んでしまう。
かなり前、もらったチケットでオーケストラ・アンサンブル金沢の公演に行ったら、
小米朝がモーツァルトの格好で出てきて、-私はモーツァルトと申します。-などと
ドイツ語で話して、司会をし、指揮をし、はてにはピアノでモーツァルトのソナタを
弾き、ずいぶん面白い人だと思っていたら、
本当に、自分はモーツァルトの生まれ変わり、だと公言していると、後で知った。
ドイツにも留学していたらしく、NHKの独語講座の生徒役になっていたこともある。
新聞で、小米朝がモーツアルトのオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」をもじって、
京都の老舗和菓子屋が舞台の「こしあん取って」という劇を作って上演したとの
ニュースを読んで、「み、見たいっ・・!」とずっと思っていた。
今回この公演を、新聞の折込チラシで見たその日すぐ、
音楽堂に電話して、チケットの予約をしてしまった。
前半は、枝雀の弟子紅雀と、米團治が落語を一席づつ。
(長屋の泥棒の噺と師走の借金取りをかわす噺)
そして後半がいよいよ「フィガロの結婚」落語版。
OEKのメンバー4人による序曲の演奏から始まり、
米團治が進行役と何役もこなし、途中地元出身の声楽家が、
ケルビーノとスザンナのアリアを歌ったが、米團治もなかなかすばらしい声で、
フィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」を歌って、
このややこしいドタバタ喜劇を、30分でやってしまった。
上等の和菓子を上等のお茶で頂いたような、楽しい宵になった。
邦楽ホールの入り口の陶板。
音楽堂には様々な楽器のほか
文楽人形も飾られている。
また、柿の実三昧をしているのかな、と二階の窓から外を見ると、
なんだかずいぶん大勢の鳥たちが空を行き来している。
おや、こちらのアンテナに停まっているのはムクドリ。
少し離れた電線に群れているのもムクかしら。
3軒隣の例の柿の木をカメラのズームで覗いてみると、
お食事中の鳥が二羽。
ヒヨではなさそう、ムクかしら。
よくよく見ると、ムクドリでもなく、ツグミのつがいだった。
いつの間にか、柿の木の背後のアンテナには、鳥たちがこんなに群れていた。
この群れも、皆ツグミのよう。食べる順番待ちをしているのかしら。
ヒヨは、と見ると、あちこち飛び廻り、
時々柿の木の近くに停まったり、
そのうちツグミと交代して
柿の実をちょっと食べ、またツグミと交代。
そういうことが何度か繰り返された。
ケンカしたり威嚇し合うような様子もなく、
みんな仲良く、順に秋の恵みを
堪能しているようだった。
今日の夕方、用事で外出した時、近所に住む野鳥の会のKさんにばったり出会った。
川辺をぐるっと回って、今日は18種の鳥を見たそうだ。
いよいよ、この川にもいろんな鳥たちが戻ってきて、楽しい季節が始まっている。
夕刻の川の紅葉
うちの庭をかすめて行ったり来たりしていると思ったら、
3軒隣の柿の実をちょっとつついては、どこかに行き、
また戻っては食べ続ける、という柿の実ハシゴをしている様子。
近所では方々に柿の木がある。
お隣の木には、まだ沢山実が残っているが、まだ来ていない。
そこは賢いヒヨドリのこと、めいっぱい熟して柔らかくなった処から
順に食しているのだろう。
たいてい一羽がアンテナに停まって、「ピーヒュルリ」と
仲間に合図している。
この、「ピーヒュルリ」には、
いろんなイントネーションがあって、
自宅周辺ではよく聞かれるが、
もしかしたら、ヒヨの方言なのかも
しれない。
NHKのドラマでは、やたらヒヨドリの
鳴き声を使っているが、
「ピーヒュルリ」は、聞いたことがない。
また、ネットでヒヨの鳴き声を検索しても、
いまだこのような鳴き声には
いきあたらない。
いずれにしても、鳥たちにはおいしい食べ物がいっぱいの、すてきな季節。
我が家の小さな柿の木は、去年剪定しすぎて、
葉がちゃんと芽吹くかどうか心配なくらいだったので、
今年は実を付けなかったけれど、
来年はヒヨたちに甘い実を提供できるかしら。
光に透かすとステンドグラスのような
紅葉し始めの柿の葉。
山茶花の花も開き始め、いよいよ冬が近づいているのを感じる。
数年来、内川鎮守の森ギャラリーでは、
竹林にインスタレーションする空間造形作品と並行して、
映像作品も発表してきた。
例年、どちらの制作も会期ぎりぎりまでかかっているのだが、
今年は特に、夏の猛暑による(そうでなくともいつも夏に持病が悪化する。)
ひどい体調不良、金魚たちは次々と病気になるし、父の入院等々、
本当に制作の進行が遅く、こんな体調ではとうてい無理なのに、
あれもしたい、これもしたいと、気持ちばかり先走り、
結局、いつもの年よりさらにぎりぎりの、まるで自転車操業のような
有様で展覧会に突入したのだった。
竹林での作品設置の初日10月30日の夜も、
3本作る予定の映像作品の1本目の仕上げをしていて、
とりあえず、夜が白む頃やっと音楽なしの映像が1作入っただけの
Video-DVDが仕上がり、それを31日持って行き、その夜からも
ひたすら映像制作の続き。
時間に対して仕事量が物理的に多すぎる2本目はあきらめ、
短い予告編を作り、1本目に音楽を付け、
編集途中の3本目を仕上げて、3作入りのVideo-DVDができたのは、
初日11月4日のほとんど明け方だった。
1本目は、93年から03年までの鎮守の森ギャラリーにおける
私の「内川・野外ワーク(この言葉は自分で名付けたものです。)の記録Ⅰ」。
95年から8㎜ビデオカメラで作品の映像を記録していて、
今年の春、全ての8㎜テープを再びPCに取り込んで、Aviファイルのまま保存する
という作業を、ずいぶん時間をかけてしたのが、
古い機器のこと、映像はあまりクリアーではなく、手ぶれ映像も多く、
あまり使える部分が多くないことが分かり、
それで、1眼レフカメラで撮った作品写真のフイルムを、
フイルムスキャナーでPCに取り込んだ画像を主にした編集作業となった。
フイルムスキャンは、去年の秋頃から始めていたが、とても時間がかかる根気仕事である。
36枚撮りフイルムを現像に出すと、
通常6コマづつで切られて、
フイルムケースに入れられてくる。
1コマづつのスキャンは、
あまりにも時間がかかりすぎる。
6コマ連続スキャンでも15分以上かかり、
おまけに、このようなフイルムの黒い縁も写る。
それを画像修正ソフトで一枚ずつカットする。
このように白とびしたものは、
補正が必要。
このようなフイルム上のほこりなどは、
拡大して、しらみつぶしに補正する。
・・・・なんてことを、やらなければならないので、
時間がいくらあっても足りないのは当たり前。
長年愛用のフイルム1眼レフが壊れて、
07年に仕方なくデジタル1眼レフに替えたけれど、
デジカメは色んな点でつくづく楽、と思うこの頃です。
予告のみを作った2本目は、04年から09年の「内川・野外ワークの記録Ⅱ」。
05年にデジタルビデオカメラを導入したので、こちらは画像より映像が主になる予定。
問題の3本目。
みかんをめぐるメジロたちの攻防戦の、ドキュメンタリードラマで、
だいたい満足のいく出来になったが、
オーサリングソフトを使って、Video-DVDに仕上げてから
確認する時間もないまま、4日、ギャラリー花音に持っていった。
今年は、実行委員でもあるギャラリー花音のオーナーの、小さいお孫さん二人が、
風邪で高熱を出し、住居であるギャラリーの二階に寝ていたり、
その看病をしていたオーナー婦人にも、風邪がうつって大変辛そうな御様子で、
また、6.7日の午後、竹林の会場にずっと居て、撮影などしている予定だった私自身も、
6日はついにダウンしていて、夕方からしか出られず、
ギャラリーで、どんな状態で自分の映像作品が流れているか、確認する時間がなく、
搬出してから改めて家でDVDを見たら、
な、なんと・・・・3本目の映像が・・・・紙芝居のような変な動きをしているではないか!
こ、こんな状態で発表してしまったのか~~~!
近頃はVideo-DVDの作成に失敗したことがなかったのにーーー。
DVDメディアが不良品だったせいか、酷使のせいでPCがくたびれていたのか。
その後見に来て下さった方々と電話で話したが、皆さん今年はギャラリー花音に
長居しなかったので、映像は見ていないとの事。 -少し安心-
実行委員の方々は、1本目だけ主に見て、なつかしいなどと話していたと
後で聞いて、とても嬉しく、苦労が報われた思いだった。
それにしても鳥たちの映像は、せっかく面白く仕上がった作品なのに、残念無念。
来年改めて発表しようかしら。
と、思うのだった。
7日、金沢市内川地区における鎮守の森ギャラリーが、無事終了した。
土、日は穏やかな晴天に恵まれ、作品を見ながら竹林を散策するには
格好の日和となった。
今年の私の作品、「鳥魚の陣」は、道を挟んで左手には小高い丘、右側は奥に向かって
なだらかな傾斜が昇ってゆく地形の竹林に設置した。
95年の第3回鎮守の森ギャラリーで、初めてこの場所に作品を設置したが、
その時できあがった自分の作品空間を眺めて、戦国武将が陣を張ったみたい、
となんとなく思い、当時連載していた新聞のエッセイにも、
そのようなことを書いたのだった。
(中日新聞夕刊、「紙つぶて」 95.11.8)
その後、何回もこの竹林を使わせてもらっているが、
いっそ、一度本当にのぼり旗を立ててみたらどうだろう、と考えたのは、
去年の“鎮守”が、終わった直後。
野外の作品展示なので、布を細いロープで引っ張るという私の作品は、
いつも雨風で苦労する。
一度張ったひもも風で緩むので、張りなおしをしなければならない。
設置した後に、今年のように荒天が続くと、夜の強雨の音を聞きながら、
作品は大丈夫だろうかと、気持ちがざわつく。
毎年、来年こそはもっと楽に設置できて、メンテナンスも楽なものを作ろう、
などと思うのに、一向に実現したことがなく、性懲りもなく、同じ苦労を繰り返している。
のぼり旗について、去年の暮れから、楽に設置できる方法を探して、
店などが宣伝用に実際に使っているのぼり旗のポールや材料など、
何種類か購入してみて検討したり、あれこれ材料を探し回ってみたけれど、
どうもうまくいかない。それで、結局いつもの素材でいつも設置方法に収まった。
同じ竹林に展開したこれまでの作品
1995年の作品「内川・野外ワーク’95」
2005年「黄色いジグザグ」
2006年「静かな帯」
2007年 「密やかな饗宴」
2008年 「色いろ風戯」
旗のデザインには、縦長の四角形に白い円を、竹林に多数浮かべてみたいと、
この形を採用したのだったが、
偶然にも、祖先の一人が関が原で掲げたものに似た意匠となった。
私の重要な同胞である鳥や魚を代弁して、
人間のあまりのもの身勝手な環境破壊に抗議するという思いも込めて、
のぼり旗の表面には鳥紋、裏面には魚紋を描き入れた。
制作しながら、ふと思った。
竹林に丸だらけで、鳥たちが怖がらないだろうか。
何しろ、カラスよけに円を描いた紙を家の外壁に貼る人もいるくらいだから。
しかし、それは杞憂にすぎなかった。
作品を設置している間も、ひもの張り直しをしたり撮影している間も、
頭上ではずっと、シジュウカラやヒヨドリや、ウグイス、スズメなどの
楽しげなさえずりが絶えなかった。
陣の中ほどには、空間の流れを造る白の細帯を設置。
帯の裏面は薄紫色。
斜面の奥には、青の大旗と流れ旗を置いて、
丘の上の赤の大旗と対峙させた。
昨日と今日、2日がかりで竹林で設置した。
昨日の午後、設置予定の竹林に着くと、
何と、高圧電線の柵で囲まれていて、ヤギたちがのんびり草を食んでいる!
予め私の作業日程の予定は、主催者側に言っていたのだけれど、
竹林の地主さんにうまく伝わっていなかったよう。
近くの地主さんの家に行ってみたけれど、不在。
何とか実行委員の一人をつかまえて、地主の息子さんにケータイで連絡を
とっていただいた。
地主さんたちは、今日はすぐヤギの移動ができるほど近くには居ず、
すぐに戻ることも出来ないというので、
電源の切り方を電話で教わって、ようやく作業にかかることができた。
・・・・・・・・が、・・・・・・・・・・・
たちまち好奇心旺盛な7匹のヤギたちに囲まれ、
脚立の移動もままならず、材料を入れたナイロン袋はかじられるし、
いつものように、地面にシートを敷いて、作品を広げることもできず、
道端に停めた車から、1点ずつ作品をいちいち柵を跨いで竹林の斜面に持って行くので、
はかどらない事この上もない。
そんな人の苦労をどこ吹く風と、仮設置した作品のすぐ傍で、
雄ヤギたちが喧嘩をはじめたり走り回ったりするので、ほとほと困ってしまった。
そのうちこの侵入者に飽きてきたものは、あちらに行ってしまったが、
1匹の雌ヤギがいつまでも遊んでほしげに、くっついている。
熊よけの携帯ラジオを鳴らしたら、なんでこんな不快な音を鳴らすのと、やっと離れて、
少し離れた場所に座りながら、悲しそうな目をして、いつまでもこちらを見ていた。
かまってあげられなくて、ごめんね。
そして、日没までの時間との闘いで、あせっていたものだから、
かれらを撮影するということも思いつかず、
こんな滅多にない面白い状況の写真をなぜ撮らなかったのかと、
帰ってから、地団駄を踏んだのだった。
同じ地主さんの田んぼで、雑草取りにいそしむ合鴨たち
準備中の作品
作品のタイトルは、「鳥魚の陣」。
まず、遠くから見通せる高台に、大旗を取り付けた。
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