今日の朝日新聞に、久しぶりに吉田秀和氏の「音楽展望」が載った。
大相撲についての文章だった。
吉田秀和さんの大ファンの私は、かねがねその心洗われるような美しい文章の随所に
書かれた大相撲についての話で、氏の大の相撲好きを知っていたので、
今回の大相撲八百長事件に、氏がどんなに心を痛めていることかと、
気が気ではなかったのだけれど、
渾身の力で立ち直って欲しいという、氏の力強いメッセージに、安堵の心地がした。
今日はまた中日新聞の夕刊にも、吉田秀和氏が最近完成させた歌曲と自伝を重ね合わせた
著作四部作、「永遠の故郷」についてのインタビューが載っていた。
私はまだその最終章を読んでいないけれど、シューベルトの「菩提樹」で
しめくくられているらしい。
そしてやはり、「菩提樹」というと、どうしてもトーマス・マンの「魔の山」。
戦争を知らない私でさえ、「魔の山」の終章をすぐ思い起こしてしまう。
氏はご自分の戦争体験と重ねての一文を書かれているというので、
ますます早く読まねばという気になった。
シューベルトといえば、昨夏アレルギー性皮膚炎がひどく悪化して
指が腫れあがってしまう少し前、ピアノソナタの一曲がやたら頭の中に流れて離れず、
弾けもしないのに楽譜をひっぱりだしては鍵盤を押していた。
№13 D.664 イ長調ソナタである。
-シューベルトには死のにおいがする、だから面白い。- とは、
ピアニスト内田光子がシューベルトのピアノソナタ連続録音に臨んでいた頃の言葉。
確かにピアノソナタには、即興曲よりどうしようもない暗さもあるが、
それは何か健康的な暗さで、ブラームスの音楽にみられる人間の深い憂愁とは
異なるもののような気がする。
ベートーヴェンに心酔していた彼の音楽には、規模の大きさや広がりを感じさせる
響きもあり、さらに抽象的な和音やロマン派の先駆者らしい旋律もある。
ベートーヴェンが濃い緑の森とすると、新緑をわたる風のような爽やかさや、
小さな野の花のような素朴さと愛らしさも見せてくれる。
D.664は、そんな若緑の曲。
楽曲のアナリゼができるような、音楽の専門知識があるわけではないが、
たまには素人の横好き解釈だってしてみたい。
第1楽章は思わず歌をく口ずさんでしまうような心楽しげな足取りで始まる。
明るい気分の散歩に、
第2主題(?)の美しい旋律が、
さざ波のように揺れる三連符の
伴奏の上に、まるでごく近い時の
優しい思い出が、心にふと
湧き出るように流れる。鈴を振るような
愛らしいメロディーである。
短調に変わった同じ旋律が、
今度は低音部に現れる。
それから、そこはやはりシューベルト。
和音の連打があって、展開部へ。
右手も左手もオクターブに開いた音階が上昇してドラマチックに盛り上がる。
再現部に戻って、めでたしめでたし。
2楽章はアンダンテ。
和音の連なりで始まる。この2楽章だけは以前から知っていた。
ピアノを習っていた子供の頃の教本、ソナチネアルバムの後ろの方に
付録のように載っていた色んな小曲に混じっていたのだった。
なにしろ練習嫌いで、下手くそで、ソナチネをちょっとかじっただけのレベルで
やめてしまったピアノだったが、後年また弾きたくなって自分で練習を始め、
昔の教本をおさらいしていたら、この曲に出会った。
表記は4分の3拍子だが、旋律はまるで4分の4拍子のような感じがして、
簡単そうなのに拍子が取りにくい。
優しくてきれいな曲だけれど、なにか不安定で落ち着かない不思議な曲だと思っていた。
それもそのはず、ソナタの中間楽章で、前後の楽章にはさまれてはじめて
その性格がはっきりするものだった。
河の岸辺の草地に座って、
流れているのかいないのか
分からぬようなたゆたう水面を、
ぼんやり見つめながら
物思いにふけっているような、
そんな楽章。
シューベルトらしく
長調と短調の間を行き来するのは、
嬉しさと憂いの間を揺れ動く
青年の心のよう。
3楽章は再びアレグロ。
移ろいやすい青春の心は、ここにきて一気にはじける。
やわらかな草におおわれた丘を一息に駆け下り、軽やかな足取りで
草原を踊るように走り興じている。
駆け上がったり駆け下ったり、
そして、これで全てはよいのだ、
といったふうの、
印象的なフレーズが
肯定的に繰り返される。
フランツさんご機嫌ですね、と
思わず声をかけてしまいたくなる。
緑の一陣の風に吹かれたような、こんな爽やかさは、シューベルトの曲に時々現れる。
明暗が人の心の内というより、自然の風景の光と影のように思われるのが、
彼の音楽の味わいなのかもしれない。
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