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Posted by Ru Na - 2010.12.05,Sun
翌朝の空は青く晴れわたり、昨日の雨がうそのよう。

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 まず、市街の東側にある永賞寺へ。
 初めて訪ねる先祖の菩提寺。
 (実際のお墓は関が原にある。)
 簡素な小さいお寺だが、
 供養塔の周囲は、きれいに
 手入れされている。
 大切にされているらしい。
 供養塔にお参りする。

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   落ち葉の散り方まで端正で、すがすがしい。

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次に向かったのは、ここからさほど遠くない気比神宮。
歩いて5分ほどの距離だった。

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日本三大木造大鳥居で有名。
春日大社や厳島神社に比べると小さいが、手前の橋の欄干と合わせて、
なかなか良い形。

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広い境内を一巡すると、そこかしこで巫女さんが落ち葉を掃いていた。

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この建物の後ろには池を中心とした横長の庭があって、
ちょうど散りかけた紅葉が、朝の光の中であまりにも美しく、ちょっと立ち寄るだけのつもりが
つい長居をしてしまった。
建物の側面には、手の格好をした謎の突起物が・・。

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resize1803.jpg なんだか変わった木がある、と
 近づいてみると、ユーカリだった。
 県指定天然記念物の説明書きも。

 このユーカリの木にも、他の木立にも
 ヒヨドリがいっぱい群れていて、
 そこかしこで賑やかに
 鳴き交わしていた。

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気比神宮の前からは、敦賀中心街の方向が一直線に見える。
車で敦賀城址の真願寺へ向かう。

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敦賀城に使われていた礎石が境内に置かれている。
このお寺の場所に、かっての三層の天守閣があったらしい。
ここから住宅街の細い路地を通って、敦賀城石碑のある小学校へ。

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この辺り一帯は敦賀城内だったらしい。さらに歩き、八幡神社へ

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 ここにも敦賀城の礎石があった。

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祖先が奉納したという竜の欄間飾りや、
肖像が描かれた絵馬を眺めていたら、
年配の小柄な女性が、ヨモギ猫と共に
近づいてきて、いろいろ説明して下さった。
どうやらこの神社の家の人のよう。

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正面の鳥居から奥に向かって左手の方に、
石の柱が立っている。
これは古い鳥居の一部で、
6年前に崩れてしまったのだそうだ。
勿谷石というこの近辺で採れる石で、
脆いものだから、だいぶ傷んでいるけれど、
慶寧という年号が読み取れるので、吉継さんの時代のものに間違いない。
と、婦人は言う。
その時代はこちら側が神社の正面で、今は家が建ち並んでいるけれど、
この方向に真っ直ぐ行くと、お城があった。
「吉継さんはお城から10分ほど歩いて、うちの神社にお参りによくいらしてました。」
「これは吉継さんが、うちに奉納された灯篭です。」
と、400年以上前の事を、つい近頃のように語るのだった。

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 この方角が敦賀城天守閣。


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 ああ何と、猫が
 ご先祖様の石灯篭を足場に、
 雨水を舐めている!


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 おおっ!ご先祖様がこんなキャラクターに・・・・



婦人の話では、大谷刑部の子孫という人が、よく全国あちらこちらから訪ねてくるという。
「特に、横浜在住の方は、毎年関が原と敦賀にお墓参りにお出でになります。」
それを聞いて、少し引っかかるところがあったので、
私も刑部所縁の者と告げると、普段は人を入れないという奥宮の中に、招き入れて下さった。
その建物の内部、奥の祭壇まで「吉継さんはお参りになっていました。」

大谷の祖祖父が亡くなった時、東京から、大谷本家を名乗る夫婦が立派な紋付で、
お墓参りをさせて欲しいと突然訪ねて来て驚いたと、祖母が話していたらしい。
家では、大谷本家ってどういうことだろう。祖祖父の出身、鳥取藩医大谷家は
大谷刑部の子孫とずっと言い伝えてきたのだが、
突然現れた本家ってどういう系統なのだろう、と時々話していた。
横浜の人とは、その本家を名乗った人の関係者かしら。

大谷刑部吉継について、あまり資料が残っておらず、身辺の詳しいことは分かっていない。
ただ、関が原では友の石田光成側について、友情に殉じた「義の人」として、
近年の戦国武将ブームでアイドル的な存在になっているよう。
関が原で敗れた側は、いろんなものが一散し、失われ、更には幕末維新を経て、
口伝えだけが残っていることが多い。
何か手がかりになるようなものがないかしら。

           -つづく-
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