見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたこと。
Posted by Ru Na - 2014.10.12,Sun
展覧会の締め切りが迫るこの多忙時期。
コンサートに行くなんて、普通考えもしないけれど、
行かないと一生後悔しそうと、どうしてもこの公演は逃したくなかった。
“あのゲルギエフ” と “あのネルソン・フレーレ” の共演が、
こんな地方都市で聴くことができる機会は二度と廻って来ないかもしれない。
ゲルギエフはカリスマ指揮者と呼ばれるが、どこがどうして良いのか
分析なぞできない。とにかく良いとしか言えない。
数年前、大阪までゲルギエフとマリンスキー管を聴きに行った。
フェスティバルホールの建て直し前のことである。
何かとてつもないものを聞いてしまった、という体験だった。
現在世界最高のピアニストの一人であるフレーレも、
非の打ち所がない、完全に安心しきってその音楽に浸りきれる
バランスの取れた演奏家である。
しかもブラームスのピアノ協奏曲第2番という魅力的な演目。
リヒテルをして、エミール・ギレリスの最高の演奏があるから
自分はこの曲の録音をしたくない、と言わしめたギレリスの
レコードを、それとは知らず昔買った。
少ない小遣いから何とか捻出して買った1枚なのに、
10代の頃は、その凄まじい迫力が怖くて、あまり聴かなかった。
清濁双方呑み込んだようなブラームスの音楽を、
心底味わえるようになったのは、年齢が進んでから。
この第2番は、なまじの演奏家では聴きたくないという想いに、
フレーレならば答えてくれるだろう。
という訳で、ブラームスのピアノ協奏曲を生で聴くのは
今回が始めてである。
第1楽章。芳醇な秋の野のような始まり。
甘美な思い出と憧れを運ぶ風が、ピアノのやるせない感情の嵐で
その景色を一変させる。
先行するピアノにオーケストラが肉付けしていくそのタイミングを
見ていると、モーツァルトのピアノ協奏曲のように
弾き振りする事が到底無理、というのがよく分かる。
通常、第2楽章はアダージョなどの穏やかで優しい旋律になっているが、
このピアノ協奏曲は違う。
第1楽章の重苦しい憂鬱さが、まるで爆発するみたい。
この第1楽章と第2楽章のキツさのおかげで、
若い頃は長い間、この曲を敬遠していた。
アグレッシヴなフレーレの音。突っ走りそうなテンポを、
ゲルギエフはむしろ抑えたがっているように思えた。
それが第3楽章、第4楽章と進むにつれ、双方のテンポが
ぴったりと合って、幸福なロンドで幕を閉じた。
アンコールは、グルックの「妖精の踊り」。
とても繊細で美しく、もっとこの人のフランス音楽を
聴きたくなった。
フレーレはF.クープランやラモーをどのように弾くのだろうか?
休憩を挟んで、後半はチャイコフスキーの「悲愴」。
3階バルコン席で、ちょうど舞台を斜め上から見下ろす位置で
聴いていたものだから、音が特に立体的に目に見えるようだった。
「悲愴」はやはりゲルギエフやマリンスキーの十八番なのだろう。
スコアも置かずに指揮するゲルギエフの指先から紡ぎだされる
豊かで驚異的な音の波に包まれて、
チャイコフスキーの音楽の海にとっぷり浸かった。
コントラバスの弦から、最後の2音がそっと弾かれ消えてゆくと、
会場はしんと静まりかえり、静寂の刻がしばらく続いた。
誰も身動きしない。
ゲルギエフがおもむろにゆっくり聴衆の方を向いても、
その静寂はしばし続いて、それから、ほんとうに静かな拍手が
少しづつ湧き上がって、それが怒涛のような拍手の嵐になった。
音楽に完全に入り込み、呑まれていた聴衆が我に還るまでの、
この貴重な長い沈黙。
その音の空白の長さに感動したようなゲルギエフの面持ちが、
目に焼きついた。
コンサートに行くなんて、普通考えもしないけれど、
行かないと一生後悔しそうと、どうしてもこの公演は逃したくなかった。
“あのゲルギエフ” と “あのネルソン・フレーレ” の共演が、
こんな地方都市で聴くことができる機会は二度と廻って来ないかもしれない。
ゲルギエフはカリスマ指揮者と呼ばれるが、どこがどうして良いのか
分析なぞできない。とにかく良いとしか言えない。
数年前、大阪までゲルギエフとマリンスキー管を聴きに行った。
フェスティバルホールの建て直し前のことである。
何かとてつもないものを聞いてしまった、という体験だった。
現在世界最高のピアニストの一人であるフレーレも、
非の打ち所がない、完全に安心しきってその音楽に浸りきれる
バランスの取れた演奏家である。
しかもブラームスのピアノ協奏曲第2番という魅力的な演目。
リヒテルをして、エミール・ギレリスの最高の演奏があるから
自分はこの曲の録音をしたくない、と言わしめたギレリスの
レコードを、それとは知らず昔買った。
少ない小遣いから何とか捻出して買った1枚なのに、
10代の頃は、その凄まじい迫力が怖くて、あまり聴かなかった。
清濁双方呑み込んだようなブラームスの音楽を、
心底味わえるようになったのは、年齢が進んでから。
この第2番は、なまじの演奏家では聴きたくないという想いに、
フレーレならば答えてくれるだろう。
という訳で、ブラームスのピアノ協奏曲を生で聴くのは
今回が始めてである。
第1楽章。芳醇な秋の野のような始まり。
甘美な思い出と憧れを運ぶ風が、ピアノのやるせない感情の嵐で
その景色を一変させる。
先行するピアノにオーケストラが肉付けしていくそのタイミングを
見ていると、モーツァルトのピアノ協奏曲のように
弾き振りする事が到底無理、というのがよく分かる。
通常、第2楽章はアダージョなどの穏やかで優しい旋律になっているが、
このピアノ協奏曲は違う。
第1楽章の重苦しい憂鬱さが、まるで爆発するみたい。
この第1楽章と第2楽章のキツさのおかげで、
若い頃は長い間、この曲を敬遠していた。
アグレッシヴなフレーレの音。突っ走りそうなテンポを、
ゲルギエフはむしろ抑えたがっているように思えた。
それが第3楽章、第4楽章と進むにつれ、双方のテンポが
ぴったりと合って、幸福なロンドで幕を閉じた。
アンコールは、グルックの「妖精の踊り」。
とても繊細で美しく、もっとこの人のフランス音楽を
聴きたくなった。
フレーレはF.クープランやラモーをどのように弾くのだろうか?
休憩を挟んで、後半はチャイコフスキーの「悲愴」。
3階バルコン席で、ちょうど舞台を斜め上から見下ろす位置で
聴いていたものだから、音が特に立体的に目に見えるようだった。
「悲愴」はやはりゲルギエフやマリンスキーの十八番なのだろう。
スコアも置かずに指揮するゲルギエフの指先から紡ぎだされる
豊かで驚異的な音の波に包まれて、
チャイコフスキーの音楽の海にとっぷり浸かった。
コントラバスの弦から、最後の2音がそっと弾かれ消えてゆくと、
会場はしんと静まりかえり、静寂の刻がしばらく続いた。
誰も身動きしない。
ゲルギエフがおもむろにゆっくり聴衆の方を向いても、
その静寂はしばし続いて、それから、ほんとうに静かな拍手が
少しづつ湧き上がって、それが怒涛のような拍手の嵐になった。
音楽に完全に入り込み、呑まれていた聴衆が我に還るまでの、
この貴重な長い沈黙。
その音の空白の長さに感動したようなゲルギエフの面持ちが、
目に焼きついた。
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金沢市在住の美術家
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