見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたこと。
Posted by Ru Na - 2011.12.23,Fri
映画「The Inner Life of Glenn Gould」には、
グールドに関わったいろんな人へのインタビューが多く挿入されている。
グレン・グールドが1964年にコンサート活動を一切止めるまでに、
57〜59年にヨーロッパツァーを行なっている。
57年はカラヤン指揮でベルリン・フィルと初共演。
翌年再びベルリンでバッハのピアノ協奏曲No.1を弾いた演奏会に、
1日遅れてベルリンに着いた音楽評論家の吉田秀和氏は、
その素晴らしい演奏の評判で持切りのこの若いピアニストを聴きたくて、
次の公演会場であるハンブルクに飛んだが、公演はキャンセルされてしまった。
グールドの生演奏を聴く機会をついに得られなかったことを、
氏はずっととても残念に思っておられるようである。
その後吉田秀和氏は日本におけるグールドの一番の紹介者になっている。
58年はローマで朝比奈隆が指揮するサンタ・チェチーリア・オーケストラで
ベートーヴェンのピアノ協奏曲No.2を弾いている。
そのいきさつは、朝比奈隆氏の著書「この響きの中に」に書かれている。
右は朝比奈隆氏の
1943年の写真。
氏は戦後間もなく
ベルリン・フィルを
指揮している。
最初のリハーサルは体調不良を理由にすっぽかされ、
ゲネプロ(総練習)でも姿が見えない。さすがに心配になった氏は、
「ソリストはまだ来ないのか」と怒鳴ったら、がやがやしている楽団員の間から
冬のコートを着た青い顔の青年が現れて、右手の手袋を脱いでそっと差し出した。
(つまりグールドが自発的に握手を求めたのである!)
「・・・・彼は弾き始めた。その音は小さく時にかすかでさえあったので、
私はしばしばオーケストラにピアニシモを暗示しなければならなかった。
・・・グールドの奏でるピアノの音は、小粒の真珠をつなぎあわせた首飾りのように
滑らかに美しく響き、オーケストラの弱奏と融け合っていった。
いわゆるベートーヴェンの音楽の雄大さ、あるいは力強さでなくて、
その古典的な端正さと清純さがその指先から流れ出るのであった。」
コンサートが終わった後、グールドは朝比奈隆に、寒いし不眠だし食欲はないし
疲れたので、明日のブリュッセル公演をキャンセルして欲しいと駄々をこねたらしい。
「明日のことは明日考えなさい。とにかくかえって寝ることだ。」と説得し、
次の日無事にブリュッセルに飛んだのを確認した、
非常に興味のある、独自な風格のある秀れたピアニストの一人であると、
氏は結んでいる。
先のベルリン公演の後、グールドは体調が最悪になって、
ハンブルクのホテルで一ヶ月の休養をとったらしい。
後年のインタビューで、彼が大好きなトーマス・マンの「魔の山」になぞらえて、
「あれが僕のハンス・カストルプ時代だったんだね。」と述べている。
フィレンツェのコンサートから復帰。朝比奈氏と共演したローマは
まだ病み上がりの時だったのかもしれない。
ケヴィン・バザーナの「G.G. 神秘の探訪」によれば、その後のブリュッセル公演は
やはりキャンセルしたらしい。
グールドのヨーロッパ・ツァーの皮切りはモスクワだった。
57年のモスクワ、レニングラード公演は、冷戦時のソ連を初めて訪れた
北米のピアニストとして記録されている。ソ連邦が彼を招いたのである。
モスクワ、レニングラード、
ストックホルムでの
ライヴ録音のCD。
映画ではウラジミール・アシュケナージ氏が、モスクワ音楽院大ホールでの
コンサートの様子を語っている。
ソ連ではまだ知られていないこのピアニストのコンサートに、
最初は観客がまばらだった会場が、後半超満員になったのだ。
前半を聞いた聴衆が、これはとてつもないすごい演奏だと、休憩時間に
知人友人に会場に来るようにと、片っ端から電話したのだった。
この有名なエピソードに触れる度、私が感じるのは、
当時のソ連の人たちの驚くべき確かな審美眼(審美耳?)である。
北米ではいつもグールドの天才性と共に、独特の演奏スタイルが取沙汰され、
低い椅子や低い姿勢、弾きながらのハミング、果てはラフすぎるその格好までが、
マスコミに常に面白可笑しく揶揄されていて、
(グールドはタキシードを脱いだ最初のクラシック音楽奏者と言われている。)
その事もグールドが早くコンサートを止めたいと思った一因らしい。
物質主義にとらわれていなかったモスクワの聴衆のほとんどが、
初めて見る演奏スタイルの外観に驚くより、音楽表現そのものの凄さにすぐ反応したという
ことに感銘を受ける。
さて、アシュケナージとグールドとの関係を今まで聞いたことがなかったが、
話しぶりからして、あのコンサート会場に実際にいたのかもしれない。
ウラジミール・アシュケナージ 1937年生まれ
1955〜60年 モスクワ音楽院在籍
丁度グールドがモスクワに行った時、モスクワ音楽院の学生だった訳である。
グールドは学生たちの希望で、音楽院でもコンサートを開いている。
ソ連当局が神経を尖らせていた現代音楽、シェーンベルク、ウェーベルン、クシェネクを
事前予告なしにレクチャー付きで披露した。
このような音楽は学生を倒錯させると考えていた教授たちは退席し、
学生たちはばつの悪い思いをしていたらしい。
もしかしたらその中にアシュケナージがいたのかもしれない、と想像するのは楽しい。
このソ連ツァーでグールドは
スヴャトスラフ・リヒテルに
会っている。
酒豪だらけのこの国の
パーティに出たがらない
彼の味方に、リヒテルだけが
なってくれたとグールドは
言っている。
リヒテルとグールドは
互いに感嘆、尊敬
し合っていたというが、
実際に会ったのは
何回なのだろう。
リヒテルがついにゴルドベルグを弾かなかったのは、
グールドの演奏を意識していたからだと言われている。
次の年、第1回チャイコフスキー・コンクールの審査員になったリヒテルは、
ソ連政府の意向を無視して、米国の青年ヴァン・クライバーンを優勝させている。
ジョン・ロバーツがグールドについて、この映画の中で多くを語っている。
55年に(世界を驚愕させた1回目のゴールドベルグ変奏曲がリリースされた年。)
カナダ放送協会の音楽プロデューサーとして彼と知り合い、以来ずっと親しい友人であり、
彼の死後、グレン・グールド財団の初代代表になった人物である。
「グレン・グールド書簡集」 「グレン・グールド発言集」を編纂している。
現在は別の家族が住んでいるグールドの生家の内部を案内し、
ここにピアノがあった、この棚は楽譜で一杯だった、と話す。
カメラを真直ぐ見て話すJ.ロバーツ氏の薄青い瞳を見ていると、
そこに等身大で生身のグレン・グールドが映っているような気がしてきた。
グールドの助手であったレイ・ロバーツや音響技師のローン・トーク両氏の語る
様々なエピソードにも、グールドが伝説の彼方の人ではなく、
実際にこの人たちの近くで息づいていた存在だったという事が強く感じられた。
グールド研究家ケヴィン・バサーナも多く語っている。
「グレン・グールド 演奏術」 (とてもマニアックで、まだ完讀出来ていない!)、
「グレン・グールド 神秘の探訪」の著者である。
思ったより若くて柔和な感じの方だった。
「神秘の探訪」は、これまでの伝記であまり考察されなかった、
グールドがあの時代のカナダのトロントで生まれ、生涯そこで過ごしたことの意味や、
彼の晩年に重要な存在だったと思われる一冊の本、夏目漱石の「草枕」について
大きく取り上げている。
- 3につづく -
グールドに関わったいろんな人へのインタビューが多く挿入されている。
グレン・グールドが1964年にコンサート活動を一切止めるまでに、
57〜59年にヨーロッパツァーを行なっている。
57年はカラヤン指揮でベルリン・フィルと初共演。
翌年再びベルリンでバッハのピアノ協奏曲No.1を弾いた演奏会に、
1日遅れてベルリンに着いた音楽評論家の吉田秀和氏は、
その素晴らしい演奏の評判で持切りのこの若いピアニストを聴きたくて、
次の公演会場であるハンブルクに飛んだが、公演はキャンセルされてしまった。
グールドの生演奏を聴く機会をついに得られなかったことを、
氏はずっととても残念に思っておられるようである。
その後吉田秀和氏は日本におけるグールドの一番の紹介者になっている。
58年はローマで朝比奈隆が指揮するサンタ・チェチーリア・オーケストラで
ベートーヴェンのピアノ協奏曲No.2を弾いている。
そのいきさつは、朝比奈隆氏の著書「この響きの中に」に書かれている。
右は朝比奈隆氏の
1943年の写真。
氏は戦後間もなく
ベルリン・フィルを
指揮している。
最初のリハーサルは体調不良を理由にすっぽかされ、
ゲネプロ(総練習)でも姿が見えない。さすがに心配になった氏は、
「ソリストはまだ来ないのか」と怒鳴ったら、がやがやしている楽団員の間から
冬のコートを着た青い顔の青年が現れて、右手の手袋を脱いでそっと差し出した。
(つまりグールドが自発的に握手を求めたのである!)
「・・・・彼は弾き始めた。その音は小さく時にかすかでさえあったので、
私はしばしばオーケストラにピアニシモを暗示しなければならなかった。
・・・グールドの奏でるピアノの音は、小粒の真珠をつなぎあわせた首飾りのように
滑らかに美しく響き、オーケストラの弱奏と融け合っていった。
いわゆるベートーヴェンの音楽の雄大さ、あるいは力強さでなくて、
その古典的な端正さと清純さがその指先から流れ出るのであった。」
コンサートが終わった後、グールドは朝比奈隆に、寒いし不眠だし食欲はないし
疲れたので、明日のブリュッセル公演をキャンセルして欲しいと駄々をこねたらしい。
「明日のことは明日考えなさい。とにかくかえって寝ることだ。」と説得し、
次の日無事にブリュッセルに飛んだのを確認した、
非常に興味のある、独自な風格のある秀れたピアニストの一人であると、
氏は結んでいる。
先のベルリン公演の後、グールドは体調が最悪になって、
ハンブルクのホテルで一ヶ月の休養をとったらしい。
後年のインタビューで、彼が大好きなトーマス・マンの「魔の山」になぞらえて、
「あれが僕のハンス・カストルプ時代だったんだね。」と述べている。
フィレンツェのコンサートから復帰。朝比奈氏と共演したローマは
まだ病み上がりの時だったのかもしれない。
ケヴィン・バザーナの「G.G. 神秘の探訪」によれば、その後のブリュッセル公演は
やはりキャンセルしたらしい。
グールドのヨーロッパ・ツァーの皮切りはモスクワだった。
57年のモスクワ、レニングラード公演は、冷戦時のソ連を初めて訪れた
北米のピアニストとして記録されている。ソ連邦が彼を招いたのである。
モスクワ、レニングラード、
ストックホルムでの
ライヴ録音のCD。
映画ではウラジミール・アシュケナージ氏が、モスクワ音楽院大ホールでの
コンサートの様子を語っている。
ソ連ではまだ知られていないこのピアニストのコンサートに、
最初は観客がまばらだった会場が、後半超満員になったのだ。
前半を聞いた聴衆が、これはとてつもないすごい演奏だと、休憩時間に
知人友人に会場に来るようにと、片っ端から電話したのだった。
この有名なエピソードに触れる度、私が感じるのは、
当時のソ連の人たちの驚くべき確かな審美眼(審美耳?)である。
北米ではいつもグールドの天才性と共に、独特の演奏スタイルが取沙汰され、
低い椅子や低い姿勢、弾きながらのハミング、果てはラフすぎるその格好までが、
マスコミに常に面白可笑しく揶揄されていて、
(グールドはタキシードを脱いだ最初のクラシック音楽奏者と言われている。)
その事もグールドが早くコンサートを止めたいと思った一因らしい。
物質主義にとらわれていなかったモスクワの聴衆のほとんどが、
初めて見る演奏スタイルの外観に驚くより、音楽表現そのものの凄さにすぐ反応したという
ことに感銘を受ける。
さて、アシュケナージとグールドとの関係を今まで聞いたことがなかったが、
話しぶりからして、あのコンサート会場に実際にいたのかもしれない。
ウラジミール・アシュケナージ 1937年生まれ
1955〜60年 モスクワ音楽院在籍
丁度グールドがモスクワに行った時、モスクワ音楽院の学生だった訳である。
グールドは学生たちの希望で、音楽院でもコンサートを開いている。
ソ連当局が神経を尖らせていた現代音楽、シェーンベルク、ウェーベルン、クシェネクを
事前予告なしにレクチャー付きで披露した。
このような音楽は学生を倒錯させると考えていた教授たちは退席し、
学生たちはばつの悪い思いをしていたらしい。
もしかしたらその中にアシュケナージがいたのかもしれない、と想像するのは楽しい。
このソ連ツァーでグールドは
スヴャトスラフ・リヒテルに
会っている。
酒豪だらけのこの国の
パーティに出たがらない
彼の味方に、リヒテルだけが
なってくれたとグールドは
言っている。
リヒテルとグールドは
互いに感嘆、尊敬
し合っていたというが、
実際に会ったのは
何回なのだろう。
リヒテルがついにゴルドベルグを弾かなかったのは、
グールドの演奏を意識していたからだと言われている。
次の年、第1回チャイコフスキー・コンクールの審査員になったリヒテルは、
ソ連政府の意向を無視して、米国の青年ヴァン・クライバーンを優勝させている。
ジョン・ロバーツがグールドについて、この映画の中で多くを語っている。
55年に(世界を驚愕させた1回目のゴールドベルグ変奏曲がリリースされた年。)
カナダ放送協会の音楽プロデューサーとして彼と知り合い、以来ずっと親しい友人であり、
彼の死後、グレン・グールド財団の初代代表になった人物である。
「グレン・グールド書簡集」 「グレン・グールド発言集」を編纂している。
現在は別の家族が住んでいるグールドの生家の内部を案内し、
ここにピアノがあった、この棚は楽譜で一杯だった、と話す。
カメラを真直ぐ見て話すJ.ロバーツ氏の薄青い瞳を見ていると、
そこに等身大で生身のグレン・グールドが映っているような気がしてきた。
グールドの助手であったレイ・ロバーツや音響技師のローン・トーク両氏の語る
様々なエピソードにも、グールドが伝説の彼方の人ではなく、
実際にこの人たちの近くで息づいていた存在だったという事が強く感じられた。
グールド研究家ケヴィン・バサーナも多く語っている。
「グレン・グールド 演奏術」 (とてもマニアックで、まだ完讀出来ていない!)、
「グレン・グールド 神秘の探訪」の著者である。
思ったより若くて柔和な感じの方だった。
「神秘の探訪」は、これまでの伝記であまり考察されなかった、
グールドがあの時代のカナダのトロントで生まれ、生涯そこで過ごしたことの意味や、
彼の晩年に重要な存在だったと思われる一冊の本、夏目漱石の「草枕」について
大きく取り上げている。
- 3につづく -
PR
ブログ内検索
カレンダー
プロフィール
HN:
Ru Na
性別:
女性
職業:
金沢市在住の美術家
カテゴリー
最新記事
(11/13)
(07/23)
(08/30)
(09/01)
(03/20)
(12/10)
(07/25)
(02/28)
(11/08)
(07/25)
(04/17)
(12/31)
(11/30)
(10/31)
(09/30)
(08/31)
(07/31)
(06/30)
(05/31)
(04/18)
(03/31)
(02/26)
(02/22)
(01/30)
(12/17)
アーカイブ
訪問者
最新TB
リンク
Template by mavericyard*
Powered by "Samurai Factory"
Powered by "Samurai Factory"