見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたこと。
Posted by Ru Na - 2011.11.27,Sun
今朝は放射冷却で思い切り冷え込んだが、
午後の日差しは暖かで、庭のモミジが金色に輝いた。
時は晩秋。
こんな穏やかな光に透いた葉を見ていると、
このように明るい色の髪をしていた友を思い出す。
先日の、内川鎮守の森ギャラリーで、
久しぶりに会った旧友Nさんに、
共通の友人が亡くなったと聞いた。
もう4年も前のことだという。
長く音信不通になっていた
フランスの女友達。
最後に会ったのは、
仏留学から帰国した後
久しぶりに訪れたフランス
でのこと。
仏北東部のトロワの近くの
彼女の家を訪ね、泊めてもらった。
高校時代からの知り合いのNさんは、いろんな仲間を集めて、廃校でキャンプしたり
海辺でバーベキューをしたりと、いつも何か楽しい企画を思いついては
人の輪を広げていく人なので、そんな遊び仲間の中に、
日本人男性と結婚して金沢に住んでいた彼女も、いつの間にか加わっていた。
私が仏留学する前は、彼女に仏会話を教えてもらったりもした。
当時は鼻が高いのを気にして、日本人のように低くなりたいと言っていた。
明るい色の細い髪の毛を私がほめたら、冬に生える髪は色が濃くなるのよ、
と笑った。
最初は日本語をほとんど話せず、あまり金沢の生活は好きではないようだった。
というより、男性に従う日本女性の慣習や、儀礼的な事が気に入らなかったらしい。
ボリス・ヴィアンの「墓に唾をかけろ」の詩が好きだった。
パリから電車に乗り、彼女の住む町に向かう途中、
車窓にはなだらかな丘陵に色づいたぶどう畑が広がり、
まさしく黄金の秋の豊穣な風景。今でも目の奥に焼き付いている。
町の静かな一角にある新しいアパルトマンに、彼女は小さな娘さんと住んでいた。
日本人のご主人とは少し前に離婚したところ。
フランスに移ってから、仕事の関係かノイローゼ気味だったご主人が、
娘さんを道連れに自殺を図ったというショッキングな話をきいた。
まだ幼い娘さんの頬には、その時の傷が生々しく残っていた。
3人でトロワの町に出かけたり、
夜は近所に住む友人宅に
食事に招かれたりして
楽しく過ごした。
その時の皆の会話は、
実存主義者の溜まり場だった
私の知らない時代の,
サンジェルマン・デュ・プレの
カフェの香りがした。
あんな大変な思いをしたのに
生きることにとても積極的で、
リベラルな良い友人達に囲まれて、
私は安堵と共に頼もしさも感じていた。
「来年になったらトロワに引っ越して看護婦の研修を受けるのよ。」
と聞いて駅で別れてから、私は南仏や南独、ベルリンなどを駆け回り、各地の友人を訪ね、
アルビの教会では、ベトナム戦争従軍後にフランスに亡命したというハンガリー人の老人と
語ったり、クレルモンフェランの丘では、失業して物乞いをしているという青年と話し込んだり、
色んな風景と共に、様々な人生との出会いを山ほど抱えて、ひと月後に帰国した。
帰ってから、お礼の手紙を書かねばと思いつつ、
次の展覧会の準備などに追われ、うかうかしているうちに日が過ぎて、
気がついたら彼女はもう新し住居に移っている頃。新しい住所は知らない。
翌年も、展覧会のためベルリンに行ったが、住所を知らぬままで連絡できなかった。
そのうち誰かに聞いたら多分わかるだろうと、呑気に構えていたら、
私を取り囲む状況も徐々に変化し、忙しさにかまけてそのままになってしまったのだった。
すっかり大きくなった娘さんが、Nさんにその訃報と共に
- 私は日本が嫌いです。連絡はこれが最後です。 -
と知らせてきたそうだ。
長く便りせぬ金沢の友を、彼女は薄情だと怒っていたのだろうか。
もし再び会えたなら、話しかけたいことが沢山あるのに。
私は時々一緒に話したことを思い出すのよ。
いつか私が貸したジャン・コクトーの本はどうしたのかしら。
感想を聞くのを忘れていたね。
あの翌年に知人の紹介で、パリでボリス・ヴィアン基金を主催している
ボリス・ヴィアンの親友だった人に会いに行ったのよ。
いつか私の作ったラタトゥイユを、フランスの味そのもの、さまになってると褒めてくれたね。
あれはいつのことだったか、一緒に三小牛山の奥にカタクリの花を見に行ったでしょう。
近くの空き地で、ラジコンのヘリコプターを飛ばせている人たちがいたでしょう。
あの時の花と空の色をあなたは憶えていたかしら。
午後の日差しは暖かで、庭のモミジが金色に輝いた。
時は晩秋。
こんな穏やかな光に透いた葉を見ていると、
このように明るい色の髪をしていた友を思い出す。
先日の、内川鎮守の森ギャラリーで、
久しぶりに会った旧友Nさんに、
共通の友人が亡くなったと聞いた。
もう4年も前のことだという。
長く音信不通になっていた
フランスの女友達。
最後に会ったのは、
仏留学から帰国した後
久しぶりに訪れたフランス
でのこと。
仏北東部のトロワの近くの
彼女の家を訪ね、泊めてもらった。
高校時代からの知り合いのNさんは、いろんな仲間を集めて、廃校でキャンプしたり
海辺でバーベキューをしたりと、いつも何か楽しい企画を思いついては
人の輪を広げていく人なので、そんな遊び仲間の中に、
日本人男性と結婚して金沢に住んでいた彼女も、いつの間にか加わっていた。
私が仏留学する前は、彼女に仏会話を教えてもらったりもした。
当時は鼻が高いのを気にして、日本人のように低くなりたいと言っていた。
明るい色の細い髪の毛を私がほめたら、冬に生える髪は色が濃くなるのよ、
と笑った。
最初は日本語をほとんど話せず、あまり金沢の生活は好きではないようだった。
というより、男性に従う日本女性の慣習や、儀礼的な事が気に入らなかったらしい。
ボリス・ヴィアンの「墓に唾をかけろ」の詩が好きだった。
パリから電車に乗り、彼女の住む町に向かう途中、
車窓にはなだらかな丘陵に色づいたぶどう畑が広がり、
まさしく黄金の秋の豊穣な風景。今でも目の奥に焼き付いている。
町の静かな一角にある新しいアパルトマンに、彼女は小さな娘さんと住んでいた。
日本人のご主人とは少し前に離婚したところ。
フランスに移ってから、仕事の関係かノイローゼ気味だったご主人が、
娘さんを道連れに自殺を図ったというショッキングな話をきいた。
まだ幼い娘さんの頬には、その時の傷が生々しく残っていた。
3人でトロワの町に出かけたり、
夜は近所に住む友人宅に
食事に招かれたりして
楽しく過ごした。
その時の皆の会話は、
実存主義者の溜まり場だった
私の知らない時代の,
サンジェルマン・デュ・プレの
カフェの香りがした。
あんな大変な思いをしたのに
生きることにとても積極的で、
リベラルな良い友人達に囲まれて、
私は安堵と共に頼もしさも感じていた。
「来年になったらトロワに引っ越して看護婦の研修を受けるのよ。」
と聞いて駅で別れてから、私は南仏や南独、ベルリンなどを駆け回り、各地の友人を訪ね、
アルビの教会では、ベトナム戦争従軍後にフランスに亡命したというハンガリー人の老人と
語ったり、クレルモンフェランの丘では、失業して物乞いをしているという青年と話し込んだり、
色んな風景と共に、様々な人生との出会いを山ほど抱えて、ひと月後に帰国した。
帰ってから、お礼の手紙を書かねばと思いつつ、
次の展覧会の準備などに追われ、うかうかしているうちに日が過ぎて、
気がついたら彼女はもう新し住居に移っている頃。新しい住所は知らない。
翌年も、展覧会のためベルリンに行ったが、住所を知らぬままで連絡できなかった。
そのうち誰かに聞いたら多分わかるだろうと、呑気に構えていたら、
私を取り囲む状況も徐々に変化し、忙しさにかまけてそのままになってしまったのだった。
すっかり大きくなった娘さんが、Nさんにその訃報と共に
- 私は日本が嫌いです。連絡はこれが最後です。 -
と知らせてきたそうだ。
長く便りせぬ金沢の友を、彼女は薄情だと怒っていたのだろうか。
もし再び会えたなら、話しかけたいことが沢山あるのに。
私は時々一緒に話したことを思い出すのよ。
いつか私が貸したジャン・コクトーの本はどうしたのかしら。
感想を聞くのを忘れていたね。
あの翌年に知人の紹介で、パリでボリス・ヴィアン基金を主催している
ボリス・ヴィアンの親友だった人に会いに行ったのよ。
いつか私の作ったラタトゥイユを、フランスの味そのもの、さまになってると褒めてくれたね。
あれはいつのことだったか、一緒に三小牛山の奥にカタクリの花を見に行ったでしょう。
近くの空き地で、ラジコンのヘリコプターを飛ばせている人たちがいたでしょう。
あの時の花と空の色をあなたは憶えていたかしら。
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金沢市在住の美術家
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